前日(土曜)の朝の内に、調理釜の補修を水島さんに済ませてもらっておいて「よかった」と思いました。昼前に着いた海詩一家と夕食はピザパーティにして、調子よく楽し無ことができたのです。その生地つくりなどで、海詩は一人前に動きました。
調理釜の補修とは、煙を吸い込む穴の位置を高くしたことです。これで、わが家の調理釜は完成、と見ています。煙を吸い込む穴の位置を高くしたことは、村山さんから見れば邪道かもしれません。本来は煙突を高くするなどして煙の引きをよくすることでしょう。しかし、幾つかの事情があって、あえて邪道に挑戦し、直観通りの手ごたえを感じています。
なんとその夜の海詩は忙しかったこと。ピザも焼きたい、食べたい、ねむい、少し目がさえると人形工房に入ってゆき、クマなどのヌイグルミの衣装も作りたい、お腹が少し空くと次のピザも食べたい。眠くなって父親のドンさんに抱かれていた間をのぞいて、海詩は終始裸足で動き回っていました。
海詩は学校を替えたようですが、新しい学校は保護者宛に「思いもよらない手紙」を届けたようです。短絡に言えば「あなたたちの子とも(海詩)は、贈物(ギフト)を授かっている。そのおつもりで」といったような内容であったようです。みかさんは英文の手紙を持参していたわけではありませんから、これは憶測の域にとどまりますが、私は次のような連想をしました。
まずアーミシュを思い出しました。次いで、女子従業員のためのデイケア―施設を持っているパタゴニア社を連想したのです。アーミシュは、生まれた子どもを両親の子どもとは位置づけていません。両親も、先ずは神の子どもであり、次いで村が授かった子どもと考えています。その考え方のもとに、身近に世話を焼くのが両親であり、村をあげて子どもを育てます。パタゴニア社のデイケア―施設もこれに似た子育てをしている、と私は睨んでいます。
母親のみかさんは気になって、いきさつなどを当たったようです。その手紙を送られた保護者の家は2軒で、その意味するところは私が直観で理解した通りであったようです。パタゴニア社のデイケア―施設では、VIP−dayという制度を設けており、順番にその日が巡ってきます。その日に当たった子どもは、皆の前で得手の紹介、つまり世界の誰とも異なっていると自覚している才能なり能力など紹介するわけです。
それはさておき、朝食は海詩の願いを妻は聞き入れ、オムライス。海詩は一番大きいのを選びましたが、最後は父親ドンさんに少し助けてもらっていました。その後、海詩は人形工房にこもりきりになり、人形教室の人たちの人気者になっていました。
とりわけドンさんは、海詩が人形教室の皆さんに迷惑をかけてはいないかと心配していましたが、夫婦で近所の散歩に出かけてもらいました。これは雨のおかげです。これまではいつも、ドンさんに薪割のために来てもらっていたようなことになっていました。前日、薪割に手を出していましたが、それがよかった、と思いました。散歩から帰ってきた両親と語らいましたが、NZでも窮屈なことが次々と生じつつあるようです。
その1例はホームビルダー。友人のレイさんのように、これまでの熟練者には許されていますが、次第に個別の資格制度ができており、分業化し始めているようです。もしやそれは「移民の受け入れと関係があるのではないか」と、私は気になり、急にレイさんに会いたくなっています。レイさんの意見を聴きたくなったわけです。
海詩は結局、前日のクマの洋服に加えて、トナカイなどさまざまなぬいぐるみの洋服をこしらえ、歓び勇んで帰ってゆきました。その時はまだ、警報ベルが10時間と経たないうちに鳴り出すとは思ってもいません。いわんや、制定されてまだ1か月と経たないうちに、特別警報が京都で発令されるとは思ってもいませんでした。
なんと特別警報を自動的に受信する携帯電話がうるさかったこと。気味悪くさえ感じました。これは、不信の連鎖、責任のなすりあいを恐れた騒音ではないか、とさえ思われました。このシステムの上に、戦時中のような社会になれば、人間はすべてお上に拘束され、ピリピリしなければならなくなりかねません。
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