アイトワでは、降った雨をなるべく自家処理したく思っています。つまり土地に吸わせて草木を育てたり、最後は地下水に戻させたりしたく思っています。そうした願いに沿っている範囲の雨を、恵みの雨と思っています。ところが近頃の雨は、逆に災いの雨が増えています。わが家の泉や、底を張っていない水槽の様子から、それが分かります。
年間総雨量は変わっていないのに、豪雨とカラカラ天気の繰り返しに苛まれることが次第に多くなっているわけです。私たち夫婦は、この災いの雨と、恵みの雨との間には、雲泥の差があることが手に取るように分かる生活をしています。
この感覚から言えば、京都でこのたび初めて発令された特別警報は、この制度はそう長くはもたないでしょう。姉からの見舞いの電話によれば、姉は60余年前に(二十歳過ぎに)京都で同じような豪雨を体験したといいますが、「次は50年とか60年先のこと」と、のんきに構えておれそうには思えないということです。もっと早く襲われそうに思われてならないのです。
かねてからそのような予感がしていましたから、昨年の集中豪雨の後で、水害でこうむった損害の復旧よりも、水害の再発防止対策を優先しています。要は、災いの雨は天災ではなく、人災だと直観で思っており、その頻度を増すばかり、と見ているわけです。
とはいえ、いかなる治水工事をすればよいのか、私には分かっているわけではありません。そこで、昔の人ならどうしたか、と考えました。さらに、突拍子もない考えかもしれませんが、天然現象に近い災害であれば(つまり農薬禍など人為的災害でないかぎり)昆虫でさえうまく適応して生き残るのではないか、と考えています。ですから「なにをもたもたしているのだ」と自分に言い聞かせています。要は「直観」を信じることにしたのです。
もし私が何百年か前に生まれており、ある村に一員として生きていたら、きっと敵襲や大雨対策などを自己リスクで手を打ち、村人を守ろうとしていたであろう。そのつもりになって、この土地に棲む昆虫や小動物を守るために豪雨対策をまず急ごう、と思っています。
その直観に基づく手作り施工がこのたびは何とか功を奏し、胸をなでおろしています。夏虫がいつものように鳴きはじめたときは、感無量でした。
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