このパラソルの下で、食物連鎖と弱肉強食の峻別など、ことの本質を深め合う話し合いもできました。また、雨天に備えて、屋内作業を用意したおかげで、いずれは手を付けなければならない作業を片づけるキッカケになり、喜んでいます。
用意した屋内作業とは、貝殻割りだけでなく、山椒の「すりこぎ」作り、つぶれた農具の修繕、あるいは干し上げた薬草刻みの準備のことです。枯れかけた山椒の木を活かしたかったし、カマやシャベルなどの修繕も雨の日の作業として取り置いてあったからです。
薬草刻みは、干し上げたミントしかなかったので、新たに一夜干しのごときヤーコンの葉も用意しました。ヤーコンはこれまで、霜が降る直前に刈り取り、干し上げてから刻んできましたが、新たな試みをする好機到来と見たわけです。つまり、早採りと、刻んでから干す方式を試みてみることにしたのです。わが家では、ヤーコンは、食材としてイモを収穫するよりも、イモの成長を犠牲にしてでも、茶葉として生かす葉の収穫の方がはるかに大切になっています。
これら3つの作業は手つかずに終わりましたが、ヤーコン茶の異なる作り方の検討は急ぎたいし、「すりこぎ」はお土産用に作っておきたいので、近く雨の日に楽しむ予定です。
雨が降らない場合の作業として、鉢植えのオリーブの木を大地に下ろす作業の他に、杉の枯れ葉拾いと、常緑樹の落ち葉を腐葉土小屋に運び込む作業を用意しており、実施しました。
雨が降らなくても毎年採用してきたのは貝殻割りで、今年も実施。この一年間にわが家が食した5種の貝殻に挑戦してもらいました。こうして溜めておけば、人間が生きてゆく上でいかに多くの生命を犠牲にしているのかが分かりよいし、種類によって殻の様子も大違いだと学べるし、肥料などとして活かすことで「もったいない」という心を育みやすくなるはず、と思っています。
もちろん、機械で粉にした有機石灰なら、1000円も出せばいやになるほど手に入ります。でもそこには採算性しか絡んでこず、人間を粗末にする境遇に自分自身を追い込みやすくなるのではないか、と気付いてもらいたい。つまり、会社人間−会社=0の世界です。
わが家では、カキガラと岩ガキの殻は肥料にしています。シジミの殻は鶏を飼っていた頃はカルシウム分を補給するエサに活かしていましたが、今は肥料です。この2種が十分ある年は、サザエの殻さえ割らずに、いわんやホタテは割らずに、樹木の肥料として穴に埋めます。
ほとんど頂き物の5種の他に、数10個のアサリと、正月三が日に10個ほどのハマグリを買い求めて食していますが、この2種は殻が硬いので取り置かず、その都度ある穴に放り込んでいます。この穴は「哲学の穴」と呼んでおり、割れた植木鉢や瓦も放り込み、いずれは樹木が喜ぶ肥料分に富み、水はけのよい土になると考えられるものだけ放り込む穴です。
研修生の中には、狩猟免許をとった人もいました。おかげで、食物連鎖と弱肉強食の峻別など、ことの本質を深め合う話し合いもできたわけです。心ある狩猟は食物連鎖の一環であるはずです。動物愛護の精神は、間違いなく動物保護運動は、狩猟家の輪から誕生しています。対して、日本でリストラと称されている社会現象が多々生じていますが、これは間違いなく弱肉強食です。これを弱肉強食の最たる例だと思う人が増えることを私は強く願っています。
それはともかく、昼食を「ピザとサラダ」にしたものですから、2人の女性には肝心の庭仕に当たってもらえませんでした。1人は生地を用意するところから、もう一人には窯を加熱し始めるところから担当してもらい、このピザ窯としては,これが「最終形態」と思われる使い方が出来ました。それは、ピザ窯の側に「消壺」を用意するなどによって、窯の中で残った太陽炭を雨の日でも即座に消して、再利用できるようにしたことです。
翌日、風除室に持ち込んでいた教材を片づけながら、前日を振り返っています。まず、オリーブの木を一本、大地に下ろしてもらいました。これがうまく根付けば、アイトワの庭で3本のオリーブの木がねづいてほしい、と願いました。いずれはそれ相当の実の収穫ができるものと期待しています。これは、ツバキと同様に、食用油を採取するうえで有効でしょう。
杉の枯れ葉を拾いながら、「大風が落した」ことに気付いてもらえたdろうか、と考えました。「風が吹けば桶屋が儲かる」ではありませんが、自然現象をいかに実生活にうまく結びつけるか、この会得はとても楽しいし大切です。子どものころに杉の枯れ葉拾いをさせられた人はこれを会得し、あらゆる自然現象を実生活にうまく結びつける目を育てるものです。
常緑樹の落ち葉かきを一度した人は、「落葉の季節が年に一度だなんて誤解」をしていた不注意に気付かされ、思考力を深めたくなるはずです。
近年はこうした作業まで「対価を求めるための労働」と見られがちになっており、生きものとしての真の感受性を阻害されがちです。いわんや、人間として生きてゆく上で不可欠である生きる張り合いや生きる力まで阻害されかねません。
定年で「会社人間−会社=0」ならまだしも、リストラでのそれはあまりにも残酷です。
要は、生きる営みの肝心の方を、人間として生きる自信を養う方を大切にして、そこに喜びを見出す感受性を見失わないようにしたいもの、と私は訴えたかった。現実の社会では逆に、生きもの共通の感受性を、つまり他の動物と容易に共感できる(たとえが食べるなどの)感受性を、なぜか異常に膨らませ、それが豊かさだと勘違いさせられがちになっています。
それがストレスやリストラをの増やしているように私は観ています。
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