観測史上の新記録がまた出ました。10月半ばだというのに暑い1日になり、多くの地域で「最も遅い夏日」や「最も遅い熱帯夜」を記録しています。しかも、1日の温度差がとても大きく、夕刻の冷え込みを私はとても厳しく感じており、ベンチコートを求めたしだいです。妻は室度を確かめ、「21度もあるのに、大丈夫ですか」と首をひねり、心配そうに風呂の準備に取り掛かっています。
焚きつけてから、居間に戻ってきた妻は、「あの(薄着で通していた頃の)孝之さんはどこに行ったのでしょうネ」と不思議そうな顔をしながら、「また、屑の薪を運び込んでおいてくださいネ」と付け足しました。
心臓を傷めてから、吹き出したくなるほど「寒がり」になりました。屋内でも夏場を除き、靴下をはくようになり、パッチは不可欠です。ついこの間まで、真冬の室内温度を16度で済ませていました。寝室にいたっては「冷暗室」と呼び合っており、新鮮な空気が吸いたくて真冬でも小窓を開け放ち、白い息を吐きながらやすんでいました。
ちなみに、「屑の薪」と、「あの孝之さん」とは以下の通りです。
あの孝之さんとは、軽装でスカンジナビアまで足を延ばしていた頃の私のことです。ストックホルムの湾が凍結している時期でも、常日頃の服装でした。30歳代だった当時、ワイシャツは年中半袖でしたし、その下はランニングシャツです。「ズボン下もはいていなかったなあ」と私が当時を振り返ると、「ニットのスラックスでした」と妻が付け足しました。スウスウ風を通すダブルニットのことです。そして年中、ジャケットは合いものを用いていました。
ここに、冬になるとトレンチコートをはおり、とりわけ寒い日はニットのベストを加えるだけで通していました。雪のNYから数時間飛べば、プールで泳げるフロリダにたどり着くアメリカ出張が多かったものですから、この服装で慣らしていたのです、
屑の薪は、私が使うことにしていましたが、このところ妻もこれで風呂を焚くようになっています。時間的に少しゆとりを得たからでしょう。銀座の松屋での個展を、1年おきから2年おきにしてもらい、心にも少しゆとりができたのでしょう。
もちろん、人形創りも楽しいようですが、日々の生活の営み自体が本来の生活であるはずです。それが楽しくなくては人生の意味がない、と妻も思っているのでしょう。このところ、夫婦ゲンカをしても、簡単には引き下がらず、とことん食い下がってきます。
私たち夫婦が好む生き方は、考え方が一致しないと、やり切れなくなる様式です。ですから私もとことん付き合います。お互いに、あとで思い出し、反芻(はんすう)しながら反省し、互いの想いを一致させるうえで活かせるようなケンカをしたい。
きっと妻は人形創作に取り組みながらこの反芻をしていることが多いはずです。何せ、ケンカの後で人形工房にこもることが多いのですから。そして、出てきたときは小ザッパリした顔に戻っています。もちろん、その得心の仕方は2通りでしょう。そのいずれであったかは、似たような次のケンカの時に推し量れます。
それはともかく、「創作活動」とは、「形のない思想など」を、「形あるものに固定する作業」と私は考えています。それだけに、「大丈夫ですか」と妻に首をひねらせ、心配させるようなことがないようにしたく思っています。
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