仲間の1人が持参した吟醸酒と妻が用意したカナッペで歓談は大いに賑わったのですが、私には予期せぬ収穫もありました。それは吟醸酒を改めて吟味したことです。
吟醸酒は聞きしに勝る贅沢な酒だ、とまず実感しました。「獺祭スパークリングにごり50」を賞味できたことを感謝しながら、「これは文明の酒だ」「文明が可能にした酒だ」と考えながら、心密かに文明の行く末に想いを馳せています。
また獺祭とは「言い得て妙なるネーミングだ」とも感じました。たしか獺祭とは、「カワウソの巣の中のごとき散らかしよう」を表す言葉ではなかったでしょうか。
文化の時代に、かくなる吟醸酒はあったのでしょうか。そもそも、吟醸酒はいつごろ誕生したのか興味を引かれました。文明以前の時代に、もしあったとすれば、ごく限られた人が賞味できる酒にすぎなかったことでしょう。自動機械ができる前に、酒米をここまで(23%にまで)磨き上げ、醸造することは至難の業であったはずです。
見たところは、その濁りようは韓国の「まっこり」に似ています。日本では近年「まっこり」ファンが増えていると聞いていますが、「まっこり」と清酒(日本酒と呼ばれる酒)との関係、あるいは「まっこり」の歴史と現状について、なぜか急に興味が沸き上がりました。韓国では「まっこり」から派生した吟醸酒があるのでしょうか。これも興味津々です。
もちろん私は自らのために吟醸酒を買い求めたことはありません。ときどき吟醸酒をいただき、喜んで賞味してきましたが、これからは受け止め方を改めよう、と考えています。
なぜなら、あまりにも吟醸酒は贅沢です。吟醸酒のために犠牲にしているモノやコトが余りにも多く、大いなる無駄を出していそうで、心配です。
23%に磨き上げる過程で削り取った77%は、その後どうなっているのでしょうか。このところ玄米を好み始めている私にとっては興味津々です。もちろん、食べ物としてより有効な部分を削り取っているわけですから、77%をそれ相当に活かしていること期待しています。その「残りかす」である23%を美酒として生かしていることを期待いています。
多分そのようなことにはなっていないでしょう。だから獺祭なるネーミングが持ち逸れたのではないでしょうか。余計なお世話でしょうが、このような醸造の方向に走り出したことが昨今の清酒市場を小さくしたのではないか、と心配させられます。
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