本当の食事とは、栄養の総和やカロリー計算で考えたり、舌や目で感受出来たり、いわんや食材の稀少性や高価さをきそったりできる次元に留めてよいはずがない、と私は感じています。真の課題は、同化を実感できるか否かだ、と想っています。
1995年から96年にかけて、アメリカを駆け巡って食料や食事のあり方も取材して回りましたが、たとえばオダワラのステルテンポールさんなどが訴えていたように「同化を実感できる食事」の大切さを、年を経るごとにカラダだけでなくココロでも実感するようになってきました。
この半世紀ほどのわが国の食事は、あえて言えば、食事のあり方をゆがめる方向に突っ走ってきた、と言ってもよいのではないか。その結果、最も悪しき事例を挙げれば、幼児死亡率を減らしたけれど、親の子殺しやいじめによる殺人が増えたように見受けられる。あるいは、平均寿命は延びたけれども寝たきりや痴呆の老人比率を増やしていた。これらの問題も食事のありようと密接な関係があることを立証する研究も進んでいます。もちろん、このたび露わになった食材の「偽装表示問題」もその好例、食事のあり方をゆがめる方向に突っ走ってきた査証でしょう。
それよりも何よりも糖尿病患者やその予備軍を激増させたし、この事実が明らかになったにもかかわらず、いわゆるグルメを煽るビジネスや報道が増えています。要は、これまでの食事のありようは、まさに心身を損なうためにあった、と言ってもよいのではないでしょうか。
野生動物が、命がけの断崖を登ったり、途方もない距離を踏破したりして、土や泥を舐めに行ったりする事例さえ報告されています。そして、その多くはミネラルの摂取であったことが解明されています。きっとカラダが命ずるままに行動を起こし、たどり着き、欠乏していた養分を満たしているのでしょう。これは1つの同化の実感ではないでしょうか。
その逆の現象は、夏日のTVニュースでよく見かけます。「今日は熱中症が多発しそうです。水分を十分に採りましょう」。のどの渇きさえ自覚できない時代でしょうか。
母親は赤子を抱きしめて授乳に応じます。赤子は、母親の体温や心臓の鼓動に安堵しながら、乳を吸う。この場合は、まさに同化を実感しあっている行為ではないでしょうか。
この日、27日(日曜日)の朝、「今日は、コイモとヤーコンを一株ずつ掘ってみるか」といって庭に出ようとすると、「ゴボウも1本、お願いします」と、妻は2本目の収穫を付け足しました。
普段は、野菜の収穫は妻の担当で、収穫しながらメニューを考えるようですが、この日は私が、次に耕す畝を見定める関係で試し掘りすることにしました。特にヤーコンは、今がイモを太らせている最中で、霜が降るまで続きます。かといっていつまでも置いておくと、イモが割れかねない。けっこううまく掘り出すのが難しい。掘り出して置いておくと鮮度が刻々と劣化します。
この日、筑前煮を主菜とした栗ごはんが夕食でした。午前中に九州から届いた野菜とわが家の野菜など、すべて顔が分かる食材を活かし、手早く妻がこしらえ、2人で食べました。なんだか、己のカラダとココロも一体化するような気分にされています。
ちなみに、ステルテンポールさんなどの食に関する訴えは、『「想い」を売る会社』に収録しました。
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