庭仕事の最中に「雨が降り出しそう」と見たときは、屋内で取り組める楽しそうな仕事に想いを馳せ、その手はずを急いで整えてから引き揚げます。このたびの、雨の下での楽しみは、ショウガの整理と、竹のランタンの補修でした。
ショウガは、(ショウガの跡を)タマネギの畝に仕立て直すために掘り出しており、11時前には一輪車に積んでありました。なにせ8時過ぎから庭に出ており、曇天の下でこまごました作業を快調にこなしたうえでショウガを収穫し、タマネギの畝に仕立て直し始めていたのです。
まず一輪車で、薪小屋から風呂焚き場へ数束の乾いた薪を移動させ、その空いた部分に、母屋の軒先で仮干ししていた薪を積み戻しています。次いで、風呂焚き場のバケツに溜まっていた灰などを、つまり温室に運んだり野小屋に戻したりするものを一輪車に積み込み、運びました。その帰途は、風呂の焚きつけにする杉の枯れ葉や割り竹を風呂焚き場に運び込むなど、日常生活を円滑に運ぶためのこまごました作業です。
これらの作業はいずれも一輪車を使いますが、風呂焚き場を起点にして一輪車を空で動かすことがないように工夫します。とりわけ心臓をいためてから、重い荷を積んで坂を上るのが億劫ですから、温度計道や一輪車階段を上下する回数を減らすように気を付けています。
問題は、タマネギの畝の仕立て直しが終わっていないのに、パラパラと雨が降り出したことです。「午後は、雨?」と覚悟しました。ここで、ならば「読書の時間に」と、なぜ思いつかなかったのか、と後で気づかされています。あわてて「午後の楽しみ」に備えたのです。
ショウガを積んだ一輪車を、畑から運びあげ、風除室で干したい。この作業は、ショウガの掘り出しにともなう作業であり、それほど面白そうに感じませんでした。そこで私は、午後の楽しみとして竹のランタンの補修を選び、野小屋の軒先で用いている竹のランタンを取り外し、ワークルームに持ち込んでおく必要がある、と考えました。もちろん、その取り外したあとの野小屋の軒先には、別の照明器具をぶら下げなければなりません。その目星もつけました。
この一連の作業で分かったことがいろいろあります。まず、ショウガに関して2つ。雨の日の軒先での作業に関して1つ。そして。さらに認知症について。
一番簡単なことは、よほどのことがない限り、冬場には、雨の日の軒先での作業はするな、ということです。とりわけ老眼になった者はするな、ということです。竹のランタンをドライバーも用いて取り外したわけですが、雨でメガネが曇り難儀です。でも途中で投げ出していません。それは午後の楽しみに期待を寄せていたからです。まるで恋に狂った人が、雨をものともせずに走っているようなものだ、とその姿を連想し、ニヤッとしています。
雨だれでビショビショにされました。メガネはぬれる。ねじ穴とドライバーがうまくかみ合わない。グッと首をかしげると襟足に、屋根を伝って来た冷たい雨が集中する。でも止めなかった。それは午後を楽しい時間にしたかったからです。没頭できるテーマが欲しかった。
ショウガを作り始めて3年目ですが、マスターしました。初年度は失敗。昨年はショウガの気持ちが分かりました。今回は、その気持ちに応えようとして、努力しました。その結果は、掘り出している最中にほぼ理解出来ました。その「ほぼ」を風除室で確認したかったのです。その確認作業の最中に、ショウガの「気持ち」が、いや「想い」が、あるいは「戦略」が見えてきました。
新ショウガと古ショウガについて、興味津々になっています。新ショウガは、掘り出して間もないショウガのことでしょうが、古ショウガは、新ショウガの古くなったものモノ、ではなさそうです。つまり、新ショウガが採れた後の前年度ショウガのことではない、のではないかと思わせられています。もちろんこれはショウガの気持ち、あるいは戦略に想いを馳せることができたことによる憶測に過ぎませんから、向こう1年をかけて確かめます。
新ショウガは、前年度のショウガを種にして半年かけて育ったものですが、その種に用いたショウガが、新ショウガの下方に「はつらつとした姿」で残っていたのです。この前年度のショウガと、倉庫で保存中の前年度の残り物の古びたショウガとでは値打ちが違って当然でしょう。
いったん種として使われながら、はつらつとした姿で残ったショウガの方が、単に古びたショウガよりも値打ちがある、のではないか。だから、古ショウガとわざわざ銘打って売るのではないか。もしそうだとしたら「スゴイ」ことだ、と思っています。
こんなことを考えながら、私は認知症になれるのだろうか、なるのだろうかと考えています。きっと、なってしまえば夢中になれること、あるいはなることがなくなりそうですから「なりたくない」と思います。ならないための努力をしたい、この願いを成就させたい、させてほしい、と願っています。しかし、「なれば」はた迷惑でしょうが「なって」しまえば、「なった」との自覚もなくなるのではないでしょうか。
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