1枚目に対する網田さんの求評に得心し、2枚目に挑戦しました。そのおかげで一石三鳥の、いや、結果的には一石四鳥のような収穫を得ています。
1枚目を作るときに、母が残した3枚の古スダレを解体し、その葦を用いましたが、相当の余りが出ました。その余りで2枚目を編み始めましたが、途中で不足することが分かり、4枚目のスダレ(母が残した最後から2枚目)に手を出しています。これが幸いして一石が三鳥になり、結果的には、ショゲかえった末の大反省という学習も含めると一石四鳥の収穫に結びついたのです。
まず、編み上げた1枚目は、網田さんに期待通りに褒めてもらえました。そもそも、このたびのスダレ編みは、私にとってはやや野心的な試みでした。「これまでに見たことがないけれど、キット面白いことになる」と思って挑戦しています。もちろん網田さんにとっては想定内のことであったようですが、褒めてもらえたのです。そのうえに、得心の求評をえました。
そこで2枚目に挑みたくなっています。求評の言葉を得心したからには、その得心を形にしないといけない、と思ったのです。おかげで、1枚目の過程では学びえなかった決定的な2つのことに出くわす幸運に恵まれた、いや、反省というドラマを加えると3つの幸運に恵まれたのです。
例えば、古スダレの解体を1つとっても、最初の1枚と3枚目では所要時間が極端に短くなっています。編む速さも、初めと中ほどでは随分早くなっていました。ですから夢中になったのですが、フト気付いたときはすでに「時遅し」でした。随分編み糸が曲がっていたのです。解いて修正すべきでしょうが、そうはせずにごまかす方法を採用したのです。そして吊るしてみて、ゆがみという結果に結び付けたことを思い知らされています。でもこれは、手作りの良さの範疇でしょう。問題は、バランスを欠いていたことです。葦を3本まとめて用いる試みに挑戦しておきながら、糸の太さへの配慮を欠いていたのです。
かくして2枚目に挑戦です。やがて葦が不足し、母が残した4枚目の古スダレを解体し始めています。そして、2つの大発見をしたのです。同じように見えていたスダレなのに、それまでの3枚とは決定的な差異があったのです。これを見落としていたことを、とても恥ずかしく思いました。それは、まず、解体し始めた直後に「?!?」と思うことから始まっています。
結論を急げば、網田さんによれば、国産品と輸入品、つまり日本の職人の品と、中国の賃金労働で生れた品の違いでした。後者は、外見は前者のように見せながら、いかに手を抜き、安くしあげるかに腐心し、賃金労働者の額に汗させた結果でしょう。前者は、いかに工賃をたたかれても、これ以上は手を抜けない、とばかりに職人が無理をした証ではないでしょうか。
まず、国産品は「パラパラッ」と葦をバラせなかったのです。「?!?」と思ってよく見ると、編み糸がよじられていた。それがキッカケで「オヤダケ」を確かめ、目を疑いました。「オヤダケ」とは、網田さんに教えてもらった代名詞の1つで、スダレの最上部の竹のことであり、亡き母が、購入日や使用場所などを記していた部分です。
昭和50年7月1日 離れ出窓・西 ¥8,800 と記されていた。
先に解体した3枚は、平成8年7月14日 ¥540。
この20年(昭和50年〜平成8年)の間に、何が生じたのか、と振り返っています。そして、アイトワ塾で「文化」の本質に触れる好例と考え、2本の「オヤダケ」を塾に持ち込んでいます。この点は、今年最後の自然計画で触れてみたく思っています。
ちなみに、スダレを編む主要な他の道具や部品の代名詞も学びました。編み糸を巻き付けてある道具で、前後(交互)に移動させながら編んでゆく道具ですが、それは「ツチノコ」。スダレの最下部の竹は「シタダケ」。
こうした学びや気付きなどに触れながら編み上げた2枚目だけに、網田さんの賞賛の言葉はとても嬉しかった。しかも、この2枚目は予期せぬ網田さんの言葉まで、つまり「欲しいナ」との言葉まで誘ったのです。もちろん私には手放すつもりはなかったのですが、塾が始まり、いつものように進み、4時間ほど経過して終わりましたが、その間に考え方が変わっていました。
それは1958年の初夏、大学1年の時の思い出がキッカケです。九州出身のクラスメイトが新入学早々に自転車事故を起こし、膝に大怪我をしました。そこで、わが家で闘病してもらうに勧めました。後に東洋工業に就職し、役員になった福田です。その福田が、お礼のつもりでしょうか、見事な戦闘機のソリッドモデルを作り、さまざまな解説を添えて、くれました。なにせ当時、人類究極の戦闘機とまで騒がれた誉れ高きF-104でした。
そのころはまだ、私は軍艦や戦闘機づくりに躍起でした。このころに「知覧」に出かけていたら、どうなっていたか。そうでなくても、庭には国旗掲揚台を設けており、大きな日章旗をへんぽんと翻らせていました。国家のためなら特攻隊員になることを辞さない、進んで特攻隊員になる考え方をしていました。
そのようなわけで、起死回生の戦闘機と思っていた「烈風」のソリッドモデルを作りつつありました。福田はこの造りかけの「烈風」を見て、「欲しい」と言ってくれました。しかし、私はそれに応えず、無言の返答をしています。
この「烈風」は今も、未完成のまま、福田がくれたF-104と一緒に飾り棚に、ほこりをかぶって並んでいます。そして、この「烈風」に目が留まるたびに反省しています。この反省を思い出し、2枚目のスダレを網田さんにもらってもらうことにしたのです。
もう1つ、この2枚目のスダレを居間で編むことによって体験できたドラマがあります。その過程で、葦の1本に小さなカマキリの卵が産み付けられていることに気付かされたことです。そして「キットあの小さな」カマキリの卵であろう、と思っています。
この発見の前に、極めて小さなカマキリを居間で見かけており、手に取って眺めていましたから、そう考えています。ですから、この小さな卵がついた葦を、2枚目のスダレに実に丁寧に編み込んでおり、子どもが無事に産み付けられたところで孵化することを期待しています。
ところが、ショゲかえらざるを得ない失策を犯してしまったのです。網田さんに2枚目のスダレをもらってもらうことになった翌日のことです。タワシで丁寧に洗ったのですが、きれいに洗うことに集中しており、すっかりこの卵のことを失念していたのです。魔が差すとは、あるいは舞い上がっていたとは、こういうことを言うのでしょうか。
次の日になってやっと気づき、大慌てで屋内で陰干しにしていたスダレを確かめましたが見当たりません。今年の大収穫の1つは、この庭に棲む5種目のとても小さなカマキリを手に取ったことであり、その直後にその(多分)卵を見かけたことだと思っていながら、その卵を下水に流しさってしまっていたのです。
妻はこうした失敗を時々犯しますが、そしていつも私は叱ってきましたが、なんと! 私がしでかしてしまったのです。ショゲかえって妻に事情を話しますと、やさしい言葉が返っていました。「歳のせいではない」と慰めてくれたのですが、今にして思えば「バカ」か「そそっかしい」と言われていたわけですが、なぜか優しい言葉と思っています。
それはともかく、4時に村山夫妻を迎え、その夜は風呂を沸かさず、寝ています。
翌朝、このスダレを居間の軒先で、外気に当てて干し始めますが、その時になって再び大声を張り上げており、次いで、洗い物をしていた妻に「困ったことになった」と呼びかけています。妻の反応は意外でした。小さなカマキリの卵が残った理由は偶然のイタズラでした。
スダレを洗うためにぬるま湯をかけましたが、水分を含んで葦がねじれたのでしょうか。小さな卵がタワシの衝撃を受けにくい方向にずれていたのです。ですから、残っていたことが分かったのです。逆光線で見たスダレに、思い当たる位置に、小さな影を認めたのです。葦の隙間にはまったような状態で、光線を遮っていたのです。卵に指先で触れ、卵だと確信し、どうしたものかと悩んでいます。卵が孵化するまで待たなければならず、すぐさま網田さんに引き渡せなくなったからです。ところが、妻の反応は意外でした。
「大阪で孵るのも楽しいんじゃない」でした。
私はムッとしながら「大阪でどうやって生きてゆくんだ」「配偶者をどこで見つけるのだ」と注意し、納得させましたが、「さてどうするか」と思案中です。妻はその葦を「1本外せば」よいのではないか、と思っているようです。
金曜日は、やっと好天になり、久しぶりに軒先にも陽が射しています。すっかり紅葉は終わりました。
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