26日に関電の集金人が集金に来にきました。留守番の橋本宙八さんから留守中と聞いて関電が用意し、送りつけて来た通知によれば「5日までに支払え、さもないと電気を切る。送電停止後支払いがない場合は1月17日に契約を解除する」との通告でした。
政府は、電気、ガス、そして水道のことを「ライフライン」と呼んでいます。これは和製英語です。どうしてこの和製英語を政府が使うのか、その意図がこのたび確認できたような気分です。私が考えていたこととは正反対の意図であった、と言ってよいでしょう。
私は、それらの供給責任を肝に銘じて(国民にとっては)「ライフライン」と呼ぶのだろう、と考えていました。もちろん、半ばはその通りでしょう。しかし、残る半ばが問題です。それは、独占性をカサに着た押し売りの権利(切られたら死ぬぞとの)意識であり、国民の首根っこを押さえ込む有効かつ最も簡便な手段と見ていた言葉であったようだ、と気づかされたのです。
現実に、阪神淡路大震災では、仮設住宅で毎年(長年にわたって)大勢の人(老人が主)が孤独死していました。その折のとどめの死因に「ライフライン」を切られたことが多かった。
わが家では、太陽光発電機をいちはやく設置しましたが、その意図は2つでした。どうしても電機が必要な(この庭を家族で有効に活かすには電気剪定バリカンなど機械を用いざるをえない)生活をしている。他の1つはなるべくきれいなエネルギーを用いたい、でした。だから金銭面での採算を無視できました。
この太陽光発電機は今も有効に動いています。しかし、私たちは直接使えないシステムに組み込まれており、この発電した電力も関電に管理されています。
この管理は、私は供給責任を全うするためであろうと考えていましたが、首根っこを押さえこむために不可欠の手段、との見ていたわけだ、と確信させられたのです。
だからでしょう。原発という(自然エネルギーと違って)巨大資本でないとまかなえない電力に、政府と結託してシフトし、国民を危機にさらしかねない事実が露わになった今も、手放そうとはしないのでしょう。もし供給責任を第一に考えていたら、直ちにやめるであろうし、供給独占権に固執しないはずです。
ちなみに、より公正を期すために、関電が機械的に送りつけて来た通知のコピーを添付します.まず、わが家では父の時代から名義変更をしていません。次に、前月分の電気料金も滞納になっているころです。わが家は喫茶店がある関係で、留守になる確率は極めて低い。しかし、決して集金人に問題があるとは思っていませんが、なぜか集金に気付けなかったのです。そのときは。督促された記憶はありません。それはどうしてか。
このようなことを考えながら「あれでよあったのだ」と思い出したことがあります。
オール電化の工事を割安にするからとのススメに応じなかったことです。応じていたら、太陽光温水器の撤去はもとより、薪風呂もやめさせられていたのではないでしょうか。
そう思いながら、4時間かけて、初風呂を焚きました。妻も長風呂を使ってくれていました。
余談ですが、5日は日曜日、やむなくコンビニから4日に送金しています。
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