しめ縄作り
 

 昨年で、ちょうど50年・50回も続いたしめ縄作りでした。ですから、この半世紀にわたる「わが家の歳時記」を止めたくなかったのですが、さまざまな角度から検討し、昨年の晩夏に打ち切ることを決めています。そして、妻を通して長年にわたってお世話になった方々にもその旨を伝えています。とりわけ、稲わらをお届けいただいてきた方々です。

 50年前と言えば、サラリーマン2年生の1964年暮れのことです。実は、1人で1つのしめ縄を造っています。住宅金融公庫を活かし、終の棲家と見定めた小さな家を建てましたが、その新年を祝うためでした。すでに、両親は移り住んでいました。

 人はいつ奈落の底に突き落とされかねないかもしれない、と私は考えています。大災害、大事故、あるいは病魔です。よだんですが、私の場合は、この覚悟をすることで、その「おかげで」との言葉を、その「せいで」という言葉よりはるかに多く使えるようになりましたし、なにかもを希望につなげやすくなっています。

 その覚悟を形にしたくて、その1つとして、しめ縄作りを位置付けていました。たとえ奈落の底に突き落とされても、しめ縄ぐらいは己の手で作り、新しい気概を心にみなぎらせて新しい1年に望みたい、と思ってきたのです。

 そんな私の心を読んでかどうかは分かりませんが、裏山での「ウラジロ取りを引き受ける」と伴さんに言ってもらえたのです。実は私は、清太と藍花のことを思い、この提案に応じました。藍花は乳飲み子時代から参加しており、2歳の時に、はやくも私に倣って胡坐を組み、ナワを編みの真似をし始めていました。ですから関さんに電話を入れ、「ワラを一束」所望しました。

 関さんからワラが届いた時のことです。妻が「いつものように」ワラを「いただいています」と言い出したのです。私にプレッシャーをかけてはいけないとでも思ったようで、報告してくれていなかったのです。もちろん「畑の敷き藁(マルチング)にでも」と言った感じで、例年のごとく稲穂がついたワラをもらっていたのです。なぜか私は無性に嬉しかった。

 伴さんは、先妻との間の次男も誘って来てくれました。働き者だし、物作りが大好きだし、力持ちで、義理の清太や藍花にもめっぽう優しい。

 伴さんによれば、裏山のウラジロは元気がない、とのこと。数が減っているようです。これまで私たちが、たくさん取ってきたことが影響した訳ではないはずです。気候変動でしょうか。

 いつものように、妻は餅づくりにあたり、黄な粉と下ろしダイコンの安倍川もちを用意しました。さまざまな役割を手分けした効果で、ほんの2時間ばかりのひと時でしたが、楽しかった。

 かくして「次の半世紀に向けて」と言いたいところですが、51回目のしめ縄作りが出来たのです。なぜか4つも作っていました。しかも、気が付くと、これまでの半世紀とは違うデザインを採用していました。なんとか2種のワラを活かしたかったのでしょう。

 3つは、長いワラを活かして、両の窓を2重にしています●。一重だと輪が大き過ぎて間が抜けたように感じられたのです。もう1つは最後に作ったもので、窓をこれまで通りにして、裾を切りそろえず、長く奔放に広げさせています。

 籾(モミ)がついたワラと、脱穀したあとだけどモチ米の長いワラの2種を、うまく組み合わせて用いて、これまで自分がこしらえてきた型を破ってみたくなったのです。

 この出来上がった形や色合いなどの「属性」に目をとめて、妻は「これが孝之さんの美意識ですか」と首をかしげました。私は「本質」、そのココロを見抜いてほしかった。

 人形作りを通して妻はその本質に苦闘していますから、いずれこのしめ縄の本質に気付き、共感を覚えてくれることでしょう。この最後の作は門扉に用いました

 実は、「なぜ4つも作ってしまったのだろうか」と思いながら、竹の入り口の引手に1つをぶら下げていました。そこに、今年最後の来客・中尾さんが、嬉しい結果報告を伴って来てくださったのです。ですから、無理やりそのしめ縄を押し付けました。元旦を彩り、希望にあふれた一年を切り拓いていただけたら、と切に願っています。

 

先妻との間の次男も誘って来てくれた

両の窓を2重にしています

両の窓を2重にしています

最後の作は門扉に用いました