ある新聞のコラムで、日本人は「太平洋戦争」を戦ったつもりはなかった、それはアメリカから押し付けられた名称であり、日本が閣議決定した公式名称は「大東亜戦争」である、と指摘していました。「大東亜戦争」には、大東亜共栄圏の樹立を目指すという日本人の歴史観や戦争の大義が込められていた。だが、占領軍は「太平洋戦争」を強制使用させることによって日本人の歴史観を抹消し、自らの戦争を「正義」と位置付けた、とでもいったような主張でした。実は、私もそのように考えていた時期があります。
ですから、大学生のころに、とても高い国旗掲揚台を庭に建て、大きな日の丸をへんぽんとひるがさせていました。しかし、1969年の冬であったように思いますが、掲げなくなり、妻が嫁いできた頃に掲揚台も取り去っています。
1966年のアメリカ出張から私の海外出張は始まりました。やがて毎年、40日ほどかけて欧米主要都市を一巡し、定点観測するようになります。そのおりは必ず、西ドイツのミュンヘンで開催されるISPOというスポーツ関連のメッセに立ち寄っていました。取引先が出展していたからです。そのミュンヘンのビヤホールで、未だに心が痛む大失態を演じています。
あるビヤホールでメートルをあげ、立ち合がって大声で歌ったのです。軍艦マーチであったと思います。さもなければ、7つボタンの予科練の歌です。その最中に、座らせようとする人がいました。「ほっとけ」とばかりに、その手を振り払いました。すると、両脇に立った2人の大男に首筋と腰あたりをつままれ、うんぬんする間もなくホールの外に放り出されたのです。
後日、事情が分かりました。そのホフブロイハウスというビヤホールでヒットラーは旗揚げしていました。立ち上がってガンガン演説していたというのです。ですから、敗戦後、ホフブロイハウスでは立ち上がって大声を張りあがることを御法度にしたのです。
それで懲りずに、後日異なる大きなビヤホールでメートルをあげ、隣席の外国人に絡みつき、軽蔑されたのです。調子よくウマを合わせてくれていましたから、「次は、イタリヤ抜きでやろう」と呼びかけたのです。「ノー、私はスイス人だ」との返事でした。お調子に乗った私の過激な発言で、日本の恥をさらしにしたような気分にされ、いまだに心が痛みます。
その時から、私は戦争について、あるいは第二次世界大戦や太平洋地域で繰り広げた戦争について深く興味を持ちました。大東亜共栄圏を標榜した戦争の実体が気になり始めたのです。むしろ、戦争の実体を知りたくなった、と言った方が正確です。日本で調べるだけでなく、展開された地元から折に触れて事実を知ろうと努めました。例えば、アメリカ側から見たベトナム戦争と、ベトナムから見た差異など。そこで分かったのは隠ぺいと歪曲です。
次第に私の目にも見えてきたことがあります。その時から私は変えたことがあります。国家とは国民の総合(主権在民)だと思っていた私は驚かされたのです。国家とは、しばしば国民を偽るものである、という事実に気付かされたのです。
1人の人を永遠に騙し続けることは出来る。すべての人を一時なら騙すこともできる。しかし、すべての人を永遠に騙し通すことは出来ない、といったような言葉を残した大統領がアメリカにはいます。だから、すべての情報を何十年かで、開示することにしたのでしょう。それは自国民のため、ということよりも、己が間違いを犯さないように戒めるため、もあったのでしょう。
もちろんそれでもまだ、騙していることが多々あると思います。しかし、そこには罪の意識を伴うはずです。少なくとも国民はそう見ます。主権在民ではない、と見ます。
安倍さんがやらかしたことをNZでTVを通して知りました。居間で海詩と2人でくつろいでいた時のことです。海外で、しかも海外の人たちが見た捉え方を知りました。各国の見方が紹介されていました。英語が分からない私ですから、いい加減な捉え方だと思い、また和やかな旅の雰囲気を壊すことを恐れて話題にはしませんでした。でも、心ある世界の人々に「失望感を与えた」だけでなく「信用を失墜した」と感じたことは事実で、心を痛めました。
そのすぐ後に帰国の途につき、HKでトランジットを楽しみました。しばらく出かけていなかった間に街は変貌していました。経済力や技術力などでは早晩日本は後塵を拝するばかりでしょう。それは世の流れ、時の流れです。これまでの日本はかくして今日の地位を得たわけですから。
問題は、その時に日本はどうなっているのか、ということです。いわば世界からシルバーシートに座らせてもらえるのか。英語ではシルバーシートを、リザーブとシートと表すようですが、わが国はこの予約席の候補者として認識されつつあるのか、ということです。
どうして日本政府は朝鮮半島の人たちや中国の人たちと理解し合おうとしないのか、と考えました。旧日本が大東亜共栄圏として理解し合い、共栄圏の樹立を目指して戦争まで繰り広げたのなら、たとえその企てを阻止しようとする国々によって潰されたとしても、時の経過がその事実を自動的に明らかにするはずです。
日本ではしきりに石田三成など謀反人と見られた人や、暗い時代と思われていた江戸時代などが見直されています。実体さえ伴っておれば、世の流れ、時の流れが必ず真実を明らかにするはずです。日本政府はなぜその促進に積極的にならないのか、むしろその逆のようなことをしているのかと、とても疑問に思いました。
肝心のことをなおざりにして、その周辺国にいくら媚を売っても、いずれは金の切れ目が縁の切れ目のようなことになりかねません。そして、それに要した日本の負債を、わが末裔に残しかねません。問題はそれだけではありません、その金の流れには間違いが生じかねず、一部の人の利得になりかねないことです。それは限りなく不透明な国にせざるをえないでしょうし、だらけた国にしかねません。それでは凋落は目に見えています。
あえていえば中国から始めて、原爆投下で終えさせられた戦争で観る金な流れとそっくりです。それを目立たないようにする猫騙しのようなことがこのところを盛んに繰り返されているように見えて、とても心配です。外に目を向けさせようとする煽りが醜く見えてなりません。心配です。
また、週初めのルーチンワークで後藤さんが見える時間です。前回分と同様に、また推敲もせずにネットに乗せざるを得ません。とても心配です。
実は、前回分は、帰国翌日後に推敲し、その2日前の日曜日に乗せた分と差し換えてもらいましたが、同じようなことをとりわけわが国の凋落については行い、差し換えることになりそうです。
かくして、この2週間は、気温でも驚かされ通しでしたが、おかげさまで有意義に過ごせました。NZは夏で、昼間は泳いでいるのに、朝晩は薪ストーブを焚き通し、夜は電気毛布を使わせてもらえた、と触れました。HKでは、空調施設にビックリです。市街地は端から端までビルや渡り廊下でつながったようになっており、ヒヤッとする換気の空調をしていた。わが家にたどり着くと、残雪があり、室内温度は5度。震え上がりました。
そのHKでのトランジット時間の過ごし方とオークランド空港での体験、は次週に回します。
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