寝たきり老人の介護問題

 

 近ごろのハッピーの様子を見ていますと、「どちらが(経済的にも)合理的なのだろうか」と考えさせられます。

 ハッピーの様子から人間の、つまり寝たきり老人の問題を云々するのは不謹慎な話に違いありません。しかし、世話される方も、する方もともに生きものですから、共通するところがあるとも思います。その世話する生き物として、憶測したくなることがあるのです。

 多くの寝たきり老人は、寝たきりにせずに済ませられていたはず、と思われてならなくなったのです。老化と全盲になったことが原因で寝たきりになりかけた1匹の犬・ハッピーの事例と、大腿骨の骨折が原因で寝たきりになりかけた母の事例に加えて、施設で五体満足なのに寝たきりになってしまった義理の母(妻の母)の事例からの憶測にすぎないのですが、気になります。

 ハッピーは、老化と全盲になったことで、活きる希望や勇気を失ったように見受けられます。嗅覚や聴覚もガタンと落ちました。さらに、寝込むことが多くなり、刻々と脚力が衰退し、急激に気弱になりました。その証拠に、そばに見知らぬ人が近づいても吠え立てなくなっていました。

 恐らく野生なら、あのまま静かにあの世に行っていたのではないでしょうか。それがハッピーにとっては一番の幸せであったのではないか、と思います。なのに、私たちはおせっかいをして、何とか生き延びさせようとしてしまったのです。

 まず、ボケにならないように、折にふれて声をかけ、触り、尾を振らせてきました。さらに、寝たきりにならないように、折にふれて「タッチ」と呼びかけ、手を添えて立ち上がらせ、歩ませたりしてきました。同時に、鎖につないでおく必要性を感じなくなり、外しています。

 そこまでおせっかいを焼くのなら、母に施したように、白内障の手術をしてはどうか、と言われそうですが、もとよりそれはする気はありませんでした。仮に、白内障の手術が実験段階であり、その検体を求めている、というように時であれば、応じ(させ)ていたかもしれません。しかし、そうではありませんから、する気はありませんでした。この犬だけ、特別の経費がかかる贅沢はさせたくありません。

 共に生活をしてきたものとして、相棒が老衰や全盲になったことを率直に受け入れ、自分たちの責任とリスクと努力の範囲で、なんとか難局を乗り越えたい、と考えたわけです。

 その後も、折にふれて声をかけ、尾を振らせ、立ち上がらせていました。ハッピーの反応は実に面倒そうに見えました。母を思い出したぐらいです。母は寝たきりになることを求めているかのごとくに、「放っといて」と言って、差し掛ける手を振り払ったものです。リハビリに伴う苦痛に絶えようとはせずに、寝たきりになって(まるでズボラをして)睡眠と味覚(食欲)の世界にこもりたがっているかのように見えました。

 問題は、シシババでした。母はそこまで人の手には頼りたくない、との強い希望を持っていました。恥ずかしがったのです。ですから自宅療養を望み、小便は自室に持ち込んだ簡易便器で、立ち上がれる限り自分で始末していました。人工肛門の始末は、恥をさらせる相手として唯一妻を選び、それが、妻のやる気を起こさせたのか、妻はその世話にも励んでいます。

 実は、私もこの問題で深刻に悩んだことがあります。心臓病で入院した2週間ほどの間のことです。尿はすべて自分で処理しました。尿瓶でとって、ベッドわきの所定の容器に移し、後は看護婦さんが検査室に運んでいました。問題なダイの方です。

 6人部屋でしたが、インターホンで「オシッコ」などと看護婦さんを呼び、世話してもらっている人を横目で見ながら、耐えました。小便の検査も終わり、10日目のことです。やっと、点滴(のスタンド)装置を押しながら、近辺に限り動き回ることを許されました。その折に、病室内にあったトイレで半時間ほどかけて七転八倒の思いです。よい体験をしました。

 そのようなわけで、ハッピーの鎖を解いてよかった、と思っています。ハッピーも、シシババの時には必ず立ち上がり、うろつき始めていたからです。そして、どこですべきかと考えているのでしょうか、相当うろついたうえで用を足しています。そのついでに、であるのかどうかは分かりませんが、だんだん行動範囲が広がり、食欲が増し、いまでは旧に復して食べる時間も短くなりましたし、3段の階段も誘導すれば難なく登れるようになりました。

 問題は、こうした回復の初期に、橋本夫妻に庭を探し回ってもらうような事態が生じたことです。その後、次第に歩き回る範囲が広がり、新たな心配も生じています。金太の側にまで出かけますから、もう少し足を延ばせば庭の外に出て、車にはねられはしまいかとの心配です。

 私たちは、こうした心配事は承知の上で、ハッピーを鎖につなぎ直さずにおいています。万一事故に巻き込まれ、大怪我をしたり、死んだりしてもやむなし、「本望であろう」と、考えることにしています。鎖につなぎ直されてジリジリと死を待つよりマシ、と思うに違いありません。

 それは逆に、私が今のハッピーのような状態になっても、ハッピーのように扱ってほしい、ということを意味しています。危険性の確率を高める行為は、自己責任でリスクを覚悟し、行うべきだ、と思うからです。それは、妻以外には世話をしてもらえない、ということを意味しています。いわんやそれを職業としている人に、公助の下で求めるのはさまざまな意味で残酷でしょう。

 キット介護施設の人たちの中には、こうした問題にも気付いており、心を痛めておられることでしょう。介護問題は今後、とても難しい判断が求められそうだ、と思われます。

 それはともかく、週末には、妻は地団太を踏むようにしてハッピーを誘導していましたが、3段階段をものともせずに登り、所定の位置に戻っていました
 

所定の位置に戻っていました