大声で挨拶したい気分

 

 かつて新聞配達をした友人の話と、前夜のTV番組を思い出し、大声で「おはようございます」と新聞配達の人と挨拶がしたい気分になりました。残念ながら、わが家の一帯で見る限り、朝刊の配達が遅くなっています。

 友人は母子家庭となったときに2人の子どもを抱えていましたから、正規の勤めとは別に新聞配達も始めており、おのずと朝はとても早くなり、朝刊を配ってから正規の勤めに就いたようです。

 その母の仕事ぶりを見て、子どもは聞き分けがよくなったことでしょうし、母親の仕事を随分分担できるようになったことでしょう。見事に育て上げてもらえたようです。友人は、病気になるわけにはゆかず、随分健康管理に留意したことでしょう。

 その前日に見たTV番組によると、女性勤労者の多くが年収140万円程度だとか、母子家庭の多くも相対的貧困層だと報道しており、とても気の毒に思っています。気の毒に思ったのは、しんどそうな生活や立場ではなく、そうした立場や生活に追い込んでいる社会風潮でした。

 ですから、このところ朝刊を配る人と挨拶をする機会がなくなっていたなあ、と振り返っています。一昔前とは違って、自転車でなく、バイクが手軽になったのだから、むしろもっと早く配ることができるのではないかと思い、これも気の毒に思っています。

 私の友人は、今では、妻がうらやむほど姿勢が良くて若々しく、自然の力を存分に活かす美容術の教室を開いています。きっと、この友人の正規の勤めと新聞配達の兼務が、今日の健康体と素敵な事業を手に入れさせ他のであろう、つまり仕事の兼務を手段のごとくに生かし、今の立場や心身を手に入れられたのであろう、と考えた次第です。

 もしそうなら、それは友人の選択と覚悟の成果、あるいは勝利ではないでしょうか。この選択と覚悟のいずれかが、あるいはその両方が、社会風潮に振り回されるなどして鈍っていたら、今のありようは到底手には入れてはなかった、と言ってよいのではないでしょうか。

 先のTV番組では、この選択と覚悟が上手く機能していない事例が多々映し出されていたように記憶しています。ですから、この社会風潮はこれから貧富格差を限りなく広げてゆくのではないか。心配しています。これは、本当のシンボウと辛抱の問題ではないか、とも思われます。