欲望の奴隷にされかねず
 

 2週前の東京でのことです。辛抱が話題になりました。友人が仕事を頼んでいる企画会社の代表者に望まれ、質問にお応えすることになったのです。実は、温度計道を3回も上り下りしながら、その折のことを思い出し、ニンマリしています。

 実は、私は「ロクデナシ」になりかねない(と母によく)言われたながら、一念発起し(?)清豊の生き方をライフワークにしたようなところがあります。それは、未来の方から微笑みかけてくる生き方の追求であり、そのためには1つの地球で済ます生き方でないといけない、といつしか考えるようになっています。

 それは「辛抱しなければいけない」ということでしょうか、とその代表者は不安げでした。

 「何を辛抱」と考えるか、シンボウの問題ですね、と応えました。

 もし、昨今の私たちの生き方が「辛抱したくないから」こうした生き方になっているのだとすれば、とても惨めな話です、とまずその想いを伝えたかった。

 地球温暖化は止まらず、天災におののくことが多くなるのはまだしも、嬉々とした気持ちで毎朝目覚められないとか、のどかで、穏やかで、ほのぼのした1日を過ごせない、と言った日がしばしば人生にはさみ込まれるような生き方は御免です。私はシンボウできない。

 逆に、1つの地球で済ますうえで求められる工夫であるし、未来の方から微笑みかけてくる生き方につながるなら、結構気分よく私はどのようなことにも取り組めます。特攻隊に組み込まれ、その役目に携わるより、よほど値打ちがある、と思います。

 それは冗談ではなく、今のやり方をしているから、安倍さんのように好戦的な人を、戦役で思うがままに突撃させられて死んだ人を、その「御霊を尊崇の念で」とうたいあげ、再び軍備を増強しようとしかねない人を、のさばらせているのではないでしょうか。現実は、突撃ではなく、日本兵の過半は、飢え、疫病、あるいは水不足で死んでいます。これは余談でした。

 ですから、温度計道を上り下りしながら、「よかった」と思っています。下るときは、両手に持ったジョウロは雨水で満杯になりますが、登るときは空になることです。これが逆なら、今の私には、願っても心臓がバクバクしますから、できない相談です。下りなら大丈夫です。ですから、2回目からは、両のジョウロを持った腕を上げたり、止めたり、差し出したりしました。バーベル変わりです。こうしたことができないために、あるいは「したくない」ために、アスレチックジムに行って機械に遊んでもらうやり方は、私は御免だし、シンボウできない。

 母は、こうした私たち夫婦を見て、「あんたらケチやね」ということがありましたが、それにもニンマリ笑って「ケチだよ」と応えてきました。すごい人は、妻に草抜きなどさせずに「人形をつくらせ、その金で草抜きバアサンを雇うたらよいのに」と言ってくれた人さえあります。

 妻を痛めているつもりはありません。水道代がもったいない、と思っているわけではありません。ばく大な電力などを使って浄化した水、しかもカルキが入った水を庭づくりに使わなければならないのは残念だ、と思います。第一、植物がそれを喜んでいるわけではありません。むしろ、水洗トイレの汚水の方を喜びます。添加物はもとより農薬や除草剤など化学物質が混じっていないかぎり水洗トイレの汚水や雨水を望んでいます。

 ですから、もっと歳をとったら、バケツで運ぶのではなくて、長いホースを買って来て、地球の引力に頼って温室まで流させるか、と考えながらニンマリしています。

 要は何を辛抱と考えるかの問題です。

 これまでの先進工業国は「最大の消費に最大の豊かさや幸せを見出す生き方」の呪縛にとらわれがちでした。それにとらわれる人が多い限り、貧富格差はドンドン広がることでしょう。遊んでいるつもりで、遊ばされる人がドンドン増えかねないわけですから。

 欲望の解放を人間の解放と勘違いさせられるのは御免です。シンボウできない。顔と同じように個別の、つまり生まれながらに持ち合わせている潜在能力に気付かぬママに、要は人間の解放を知らぬうちに死ぬ人を増やす社会風潮を見るのは残念です。シンボウできない。

 「最小の消費で最大の豊かさや幸せを見出す生き方」に目覚めないと大変です、さもないと、私たちは取り返しがつかないところに追い込まれかねない、と言いたいわけです。