二十歳の時

 

 今治タオル産地は今、世界一の産地づくりを目指しており、元気です。統一産地ブランドとロゴマークの制定や、タオルマイスター制度の導入などをはかり、1500人を超すタオルソムリエが活動するようになっており、世界のブランドに育てています。

 往年は、1970年代前半でした。1973年における企業数は500社強、織機台数は9000台近く、そして8000人もの人が従事していました。その後(繊維産業で立国したわが国ですが、構造的不況期に入り)今治のタオル産地も構造不況の波には勝てず、衰退の一途をさまよいます。アイトワを訪ねてくださった時(1998年)は、244社、4700台、そして5110人に減少していました。アイトワを訪ねてくださったキッカケは、若き日の宮崎陽平さんの感受性のおかげです。

 今(2013年)は、121社、1921台、そして2451人へとさらに数字的には半減しています。にもかかわらず、今治のタオルは知名度を高めており、世間の耳目を集めています。

 実はこの度、今治にある日本環境設計(という会社)の綿製品リサイクル工場を訪ねることになり、今治のタオル産地の様子もうかがいたくなっています。そこで妻に、「あれは何年前のことだったかなあ」と話しかけました。しかし、妻も思い出せなかったのです。

 ところが妻は、何かを思い出したかのように別室に行き、宮崎陽平さんが父親と一緒にみえた当時の土産を押し入れから引き出してきまいた。それは宮崎タオルの製品で、なんと妻は後生大事にしまい込んでいたのです。それには訳がありました。

 「息子が、これはバイブルじゃ」と言い張りますから、といってその父親は出版間なしの『「想い」を売る会社』をかざし、陽平さんを紹介しました。当時、父親は四国タオル工業組合の専務理事であったように思います。そして、その日のことであったと思うのですが、あるいは日を改めていたのかもしれませんが、それはともかく、陽平さんはわが家に泊まっています。

 妻は若くて率直な陽平さんを息子のように扱っていました。この度、2泊もしていたことを知りました。私はこの若者に、ものおじしない特質と和して同じない天分を見出し、期待しています。

 日本は、消費者も変わらなければいけないが、企業も変わらないと大変なことになる、と私は見ていました。消費者は一瞬で心変わりし、行動を変えられますが、企業はそうは行きません。それだけに急がなくては、と感じていました。そのような不安が仮説編の『人と地球に優しい企業』を記しています。つまり、自分たちには厳しいが、その厳しさが従業員の誇りになり、経営者の自信になり、そして世間における存在意義となる企業を目指そうとの呼びかけたわけです。それから8年後に、その検証編『「想い」を売る会社』が誕生しました。

 多くの大人は「そうは言っても」とつれない反応でした。もちろん、大量購入して全社員に配ってくださった会社もあります。しかし多くの経営者は「それは儲かっている会社にできることで」とか「それは大手がすることで」といって、態度を新ためてはもらえていません。

 そのような中にあって、四国タオル工業組合の勉強会に参加させていただくことになり、テキストとして『ブランドを創る』の複製品をつくることをお願いしています。『ブランドを創る』は『人と地球に優しい企業』の2年後にできた拙著であり、すでに絶版になっていたからです。


 


宮崎タオルの製品

すでに絶版になっていたからです