源ちゃんに恩返しができた
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この日も、『「想い」を売る会社』を仕事机の上に置いてもらっていました。この度の訪問を希望し、電話が初めて通じた折も、「今も机の上に置いてありますよ」と言ってもらっています。そのときに私は、源ちゃんに恩返しができた、と思っています。 私はライフワークとして、ポスト工業時代である「第4時代」の構想と、そこで容認される生き方のモデル作りを据えてきました。それが本格化したのは、商社の仕事に慣れ、欧米出張が許されるようになりからのことです。まず「第4時代」を発想するようになり、それを紙誌を通して明らかにし始めたのは1973年です。それはオイルショックがキッカケであり、ということは、この時が源ちゃんに感謝し始めた第一期です。 やがて「第4時代」の全体像が得心できる姿になり、再就職先の会社が導入したワープロをいかし、当時の秘書・大内理恵さん(当時)にその原稿をほぼ打ち終えてもらっています。1986年の夏ごろのことです。ということは、会社では社長室長を勤めていたしたから、しかも社長が年商3000億円構想を画策し始めていましたから、社長への警鐘として筆を執っていたのです。ところが社長は、やがて『バブル』という呼び名がつく潮流に浮かれ、2度3度と諌めても聞き入れてくれません。 その5年前から、私は庭に「第4時代」に備えた建物を作ることを構想しており、1984年の暮れごろから手を付けています。逆に社長は、安藤忠雄さんに依頼して、私の目には「第4時代」になれば無用の長物になりかねないと見えた小売店物件のビルなどを作らせ始めました。 そこで、辞表を提出し、「第4時代」の創出と移行を提唱する原稿に「ポスト消費時代の旗手たち」との副題を付け、出版を夢見て駆けずり回り始めています。1988年初夏にモノになりました。その時が、第二期の「源ちゃんに恩返しができた」と思いはじめた時です。 というのは、私が源ちゃんの死を知ったのは死後幾年もしたときのことで、そのご冥福さえ祈れていなかったのです。それほど世間に知られずに源ちゃんは世を去っています。 私が源ちゃんに感謝するのは、19歳という感受性が豊かな時に、とても含蓄に富んだ言葉をくれたことです。その後、源ちゃんの真似ごとをしたい、つまり若き感受性にまっとうな意見を伝えたい、と願う日々を過ごしてきたようなものです。 この度、宮崎陽平さんがオーガニックコットンの原料を3年分も備蓄し、無借金経営を旨とし、品種を絞り、環境問題に大いなる関心を払うだけでなく人知れず寄付活動に参画しながら、隆々と経営していたことを知り、とても嬉しかった。 組合員の立派な展示即売会場でも彼の製品は輝いていました。また、その父親が再現したという昔の織機なども見学しました。もちろんこの会場で、専務理事の木村さんを交えて今後の課題を語り合っています。次の難門がすでに表れ始めている頃です。この難関をいかにこの組合が音頭をとって、心を1つにして乗り越えるか、次回訪問が楽しみです。 話しはもどりますが、1990年に出してもらえた『人と地球に優しい企業』では、オランダで生じたバブル、チューリップ事件をとり上げ、土地の投機に熱を上げる愚かさを訴えています。もちろん、この一書も社長室長にしてくださった再就職先の社長にも贈っています。 まっとうな意見とは、目先のことに振り回されるのではなく、時代(権力)や文化がいかように変わろうが、変えずに済む意見のことではないでしょうか。それをサラリと源ちゃんのように口にできたときに、源ちゃんに恩返しができた、と私は思ってきました。 余談ですが、その目から見ると、今の首相の安倍さんは異常です。新NHK会長や現補佐官をいまだに容認しているのも異常です。このありようは、早晩惨めな結果となって露わになることでしょう。さもなければ、私たち日本人が異常であり、世界における孤立を進めることでしょう。 |
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立派な展示即売会場 |
立派な展示即売会場 |
昔の織機なども見学しました |
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