歓談

 

 偉い人は「違う!」と思いました。忘れ物を取りに見えた野口さんに教わったある女性のことです。野村正冶郎という偉い人を育て上げた母親です。その詳細や、野口さんとのかかわりなどは後日詳しく聴かせてもらえる予定です。

 野口さんは、先週アイトワ塾があった日に、網田さんから「竹箒」をもらっていながら忘れて帰り、見えたわけですが、これ幸いにと私はお茶の時間にしたのです。

 同じ出来栄えの竹箒を、わが家も網田さんからもらっており、妻が使っています。中国などから輸入した竹箒なら200円足らずで買い求められますが、これは似て非なるものの典型例です。上手に使えば「持ち」も違いますが、コケの上の落ち葉掃除などに用いてみると、掃き心地が決定的に違うのです。用途と使い方次第で、安いものでは不可能なことを可能にします。

 まずこの話から始まり、価値とは一体何かとか、何をもってその差が生じたり、その差を認められたりするにいたるのかなどと話題が広がったのです。

 その一環で飛び出したのが野村正冶郎の母でした。この女性は古布を商っていました(露天商のようなイメージを私は受けました)が、ある日外国人から値段を問われ(外国語に通じていなかった彼女は)「10銭のつもり」で両手を広げ、かざしたようです。その男はやおら「10円」を取り出し、満足げに引き取っていったそうです。

 普通の人なら、あわてて手を振って「10円ではない」とのポーズを示したり、つり銭がないとばかりに慌てたりしたことでしょうが、彼女は違いました。「ピンとくるもの」があったのでしょう。国際的な目で見れば、それほど値打ちがある代物を扱っているのだ、と知ったようです。かくして財をなし、息子を豊かにかつ国際感覚のある人に育てており、文化面でわが国を潤わせる役回りを担わせたようです。

 

似て非なるものの典型例