つぶす喜びに翻弄させられる  庭宇宙Uより抜粋
 

 ヒトとは、おかしなものだと思います。私はその典型です。いまだにあっちに振れたりこっちに振れたりしかねません。

 そうしたフラフラした心境になると、そのどちらが他の動物と同等・同列の「ヒト」であり、どちらが他の動物から格段に進化した「人」なのか、と今では考えるゆとりが少しは出来たように思っています。そして同時に、これはきっと人のココロを心地よくしてしまう生体物質・ドーパミンのイタズラではないか、と思うようになっています。

 ドラマ『ごちそうさん』で見る「カッちゃん」は、母親譲りで、あるいは創造的に料理を作り出す母親を見て育ち、料理に情熱を傾けるようになった「人」と思われます。しかし、まったく反対の喜びを求める人たちの集団である海軍に志願しました。

 軍隊とは、一面では典型的な「ヒト」の集団です。他の高等動物と同様に、同種の仲間同士で(つまりヒトどうしで)争いたがる動物であるからです。でも、他の一面では典型的な「人」であることを示しています。つまり軍隊は、組織的に人間を、つまり同種の高等動物を、まじめくさって殺し合ったりしますから、これは他の高等動物には見られないことであり、まさに「人」である証拠です。この2面性を掛け合わせて考えると、「人」とは「ヒト以下の動物」でも ある、といってもよいのではないでしょうか。

 問題は、私たちはこの「ヒト以下の動物」に憧れる傾向にある、ということです。私などはその典型で、社会人になって数年目の1967〜68年ごろまでは、つまり欧米出張に出かけ始めて間なしの頃まではそうでした。当時、アメリカのウエストポイントで見られた光景を忘れられません。真っ白のドレスを着た女子大生たちが、陸軍士官学校の学生たちとペアーを組んでダンスに興じ恍惚としていた光景です。なぜかその時、私は戦時中のひめゆり隊員や特攻隊員などに尊崇の念を抱いていており、心ひそかに「その無念を晴らしたい」と考えていたフシがあります。

 そのころの私は、まだ戦艦大和にも憧れており、幾度にもわたって作った大和の、最後の模型を机の上に飾っていたように記憶します。次の問題は、幾度にもわたって大和の模型を作っていながら、どこに調理室があったのかはもとより、調理人が乗り込んでいたことにさえ関心など示していなかったことです。世界1の口径の主砲であるとか、多少の魚雷攻撃ぐらいではビクともしない構造などに目を向けがちになっていたのです。

 『ごちそうさん』のカッちゃんは、「お国のために役立ちたい」といって海軍に調理人として志願しました。もし私がカッちゃんと同じ年頃であれば、調理人ではなく砲手とか操舵士など戦う人になることを願って志願し、大和に乗船しておれば、飛び上がって喜んでいたことでしょう。そして、調理人やひめ百合隊員などに、まぶしい眼差しで見てもらおうとしていたことでしょう。

 もしや、このドラマでは、カッちゃんを大和に乗り込ませるのではないか、と私は心配しました。そうなれば、きっとカッちゃんも進んで血みどろになりかねない人たちに、砲手などに対して敬意を表わし、たとえこれら兵士などから蔑まれるような場面に遭遇しても、必死になって料理づくりで役立とうとする姿を視聴者に連想させるのではないでしょうか。

 ここまで考えが至ったときに、なぜか先月みえた佛教大学生の1人のことを思い出しています。アイトワでの庭仕事を経験しながら、このような生活で「辛いことってありますか」といったような問いかけをした女子学生のことです。そして「それは辛い」と言わせる事例を思い付きましたが、その折のことを思い出し、振り返ってしまったわけです。

 なぜか私たちは、「ヒト以下の動物」になった人に、つまり人同士の殺し合いに躍起になる戦争に加担できるヒト以下の人に憧れがちになりかねない、ということです。そのヒト以下の人になった時の特色は、他の人に造らせた武器を駆使し、要はつぶしながら、生身の同類を殺すことにも躍起になるなど(決まったように武器や人類を)「つぶす喜び」に浸たることです。

 さらなる問題は、「つぶす喜び」を求める過程で、きれいな水や空気まで汚染してしまうことです。それは、自分たちの末裔が生きてゆく基盤である自然を台無しにすることを意味しています。にもかかわらず、カッちゃんのように創る喜びに浸りがちになる人は、「つぶす喜び」に真面目に浸る人たちを支えるために躍起になって立ち働き、罵声を浴びせられても従って、創る喜びに浸ってしまいかねないところがあることです。

 きっと、脳内麻薬であるドーパミンは、「つぶす喜び」に浸っている(つまり「ヒト以下の動物」である)時もたくさん出るようですが、「人」にしか許されないクリエイトをするときに、つまり「つくる喜び」に浸るときはより多く分泌するのではないでしょうか。

 ですから、「己は血みどろにならずに済ませながら、ドーパミンをタップリ分泌する卑劣極まりない役回りを願うヒト」になりかねないのはないでしょうか。それは、志願して軍隊に入って作戦本部に行きたがる人、(そうした人を怪しげに操る)好戦的な政治判断を下す人、あるいは、戦争の(血なまぐさい)危機意識をいたずらに煽り(好戦的な政治判断を下す人などを生み出し、囃し)立てる人たちのことです。かつての私は間違いなく、その1人になりかねない人でした。

 神風攻撃隊員、回天や震洋の乗組員、あるいは潜水具に身を固めて海底に潜み、爆雷が先についた竹やりを敵艦の船底に突き立てる兵士として訓練にいそしむなど、命を落とした人たちに尊崇の念を抱いていました。そして今の日本の繁栄は、その人たちの犠牲の上にある、と思ってい たフシがあります。

 でも、その後、この考え方は揺らぎました。それにはベトナム戦争も関係しています。たしかアメリカ兵の戦死は5万人台であったと思いますが、帰還してから自殺などした人が15万人ほどいたと聴かされたからです。つまり、帰還兵は女子学生たちにさえ英雄視されず、むしろ唾棄されかねない社会になっていたからです。

 それはともかく、ドラマとはいえ「カッちゃん」はもとより「通天閣」も死なせないでほしい。