思い出話

 

 戦時中の小学校で、登校時に先ず最敬礼したのは忠魂碑ではなく奉安殿でした。両陛下のご真影が飾ってあった建物です。教室の床下に防空壕があったことや、丸いパンと味噌汁の給食があったことなども振り返りました。

 同窓男子24人中すでに4人が亡き人になっていたことを知りました。とりわけ、その1人、よく一緒に遊んだ朝鮮人の友だちの死が、「もう一度会いたかった」と悔やまれました。朝鮮部落と呼ばれていた居住区にもよく出かけて(母は厳しく諌めましたが)遊んだものです。

 朝鮮戦争が始まった時に、朝鮮人の児童は一人一人別室に教諭に呼び出され、この友人も「僕は北や」と言って、あおい顔をして出てきました。今にして思えば、北の出身なのか南であったのか調べたわけです。「ボクがこのような目にあわされたらどうしよう」ととてもやるせない気持ちにされ、同情したことを思い出します。

 そのころ、わが家では20羽からの鶏を飼っており、飼育担当は私でした。ですから、その餌として穀物屋を定期的に訪れ、砕いたトウモロコシを買い求めていました。ある日のこと、この友人の父親が立ち寄り、店主に「人間が食べられますか」と質問しました。私は、その店主の答えを聴かずにそそくさとその場を立ち去ったことを今も鮮明に覚えています。

 その後、小学6年生の時に、つまり父が8年間の闘病生活からボツボツ解放されかけていた時期に、父が下した一つの英断があります。それは、朝鮮部落の一軒の主婦の願い、わが家が鶏をつぶした時に「その頭がほしい」との願いでした。その頭を土鍋でグツグツと溶けるまで煮て病人に飲ませたいとの願いに、父は聞き入れる以上のことをしました。

 その求めに応じて次々と私に鶏をつぶさせ、その頭をその主婦にとりに来てもらったのです。当初母はきらっていましたが、次第にその頭を丁寧にくるんで主婦に渡すようになり、やがて病状などを話し合うようになっていました。それが何とも私には嬉しかった。

 次のヒヨコを孵す時期に、春を待たずに、鶏はすべていなくなりました。ちょうどそのころ、その病人が死んだ、と主婦が知らせに来ています。

 ある日、ぶらりと出かけた父は、ヤギの子を1頭つれて帰ってきました。父が起き出して最初の遠出ではなかったでしょうか。そして私を飼育担当にしました。それはまるで私が中学生になる記念のような出来事でした。

 こんなことを思い出しながら、会話の輪に入ったり、黙りっこくなったりしたわけですが、この4人が呼びかけ人となって桜の花が咲くころにクラス会を開くことになりました。

 こうして始まったような一週間でしたが、浦和レッズの「ジャパニーズオンリー」事件が生じています。あれは観客席をジャパニーズオンリーにしたかったのでしょうか。それとも、浦和レッズの選手をジャパニーズオンリーにすべし、と言いたかったのでしょうか。あるいは、外国チームに出かけた日本人選手を非難したのでしょうか。気になります。

 いずれにせよ、1973年に、このいずれの考え方とも異なるアイトワの理念を固めた私の目には、奇異に映りました。