まず目に飛び込んできた光景は、寝室の枕元にある北窓でした。2日前から雨戸を開けたままにしてやすんでいました。広縁に出ると、中庭のクリスマスローズが目に飛び込んできました。やっと中庭は、妻が大好きなクリスマスローズの庭になりました。
ちょうど70年前の「このあたりは」と、なぜか過去を振り返っています。母が麦畑にするために悪戦苦闘し始めたところです。霜が降るようになってから、私は麦踏みを手伝わされました。そして夏場は、サツマイモ畑になっていたことも思い出しました。
その後、朝鮮戦争の頃から、父が8年間の闘病生活から起き出し、経済力を復活させます。やがて畑は放置され、ススキなどが生え始め、次第に荒れ果ててゆき、ノウサギの遊び場のようになりました。このようなことを思い出しながら、パジャマ姿で庭を一巡りしています。寒さを感じていません。朝日が竹藪を通して射し始めました。
57年前の18歳になった私は、なぜかこのあたりで開墾をし直しています。サツマイモの苗を植え始めたことを振り返りました。そしてイノシシ対策として、裏山でシイの木などを切り出し、その丸太で柵囲いも作りました。その余勢をかりて、今は(水道を引いて)水屋を作っているあたりに池を掘り、竹の樋で山水を落とす風情を楽しんだり、丸太のベンチも作り、その水音を楽しみながら、どのような庭に仕上げようか、と荒れ果てた庭を思いやったりしていた頃のことを思いやっています。
「そういえば」と、当時のたわいのない思い出も振り返りました。やや大げさですが(ジエーン台風で酷い目に合った体験があったからだと思いますが)台風ごときで被災者が出るようなことがない国土になってほしい、と強烈に願っています。
そのころから(今にして思えば)とても歪んだ、そして偏狭な愛国心を抱き始めていたことも思い出しました。太平洋戦争での特攻隊員やひめ百合隊員に想いを馳せ「今に見ておれ」との国家意識も抱いています。
同時に、父への嫌悪感も抱き続けていました。それは「ソロバン」であり、経済面を優先する発想でした。こうしたことが重なって「工業デザイン」を勉強しよう、と決めたことを思い出したわけです。かくして進学し、60年安保、やがて就職します。
寒冷紗を外しておいて「良かった」と思いました。同時に「たしかあの辺に」と、かつて国旗掲揚台を立てて「へんぽんと日の丸をひるがえしていたンだ」と、記憶をたどりながら「そこには、今は何が」と、考えています。そのころは、今とは雲泥の差の考え方でした。「泥」を「雲」のように思い、得意気だったのです。この国旗掲揚台は、妻が嫁いで来た時は、まだ残っていたはずです。
過日植えた畑ワサビが順調に育っていました。このたびはうまく育てたい、と思いました。このように、思い出にふけりながら庭を一巡りし、日の丸をひるがえしていたあたりに立ち戻り、この巣箱に「今年も(ミツバチが)入るかナ」と思ったり「今年も逃げられるのだろうか」と考えたりしています。最後は、国旗掲揚台があったところから庭を見渡しました。
ハッピーはまだ眠ったままでした。国旗掲揚台があった周辺は、今では目が見えなくなったハッピーの余生を過ごす空間になっています。近ごろは、足がかなり達者になり、うかつに玄関の扉を開けられません。いわんや糞を踏みかねないのでうかつに歩めません。
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