半断食道場の報告

 

 マクロビアンの半断食セミナーはこれが3度目です。初回は、奇跡のようなことが生じた「伊勢」での集いでした。この体験を下に、網田さんに推薦しています。2回目は、原発で知られる四国の西端「伊方」での集いで、網田さんと参加。そして今回は、妻に「孝之さんも食べるのが早くなったヨ」と、たしなめられ、網田さんを誘いました。

 奇跡のようなこととは、結果論です。病院で、次第に服用量を増やされていたワーファリン(血液をサラサラにする錠剤)の服用が不要になっており、医者を慌てさせたことです。つまり、マクロビアンの半断食セミナーは、健康の根本である血液の浄化を第一目的に上げている、と聴かされて試しましたが、それが具体的・劇的に証明されたのです。

 その折は、まず3日目に気体での廃毒(によって、寝所に異臭が立ち込めた)に驚かされることから始まっています。次いで、食べ物の位置づけや食事の意義を変えさせられています。それまでは、断食すると体がヘタリ、車にとってのガソリンのようなイメージを持っていましたが、(私にとってそのイメージは完全に)間違っていたことに気付かされています。その時の10kmにおよぶロードワークは、トボトボとついて行かざるを得ない体調でしたが、次第に気力が充実し、心情的には「拡張性心筋症ぐらいクソクラエ」とまでは行かないまでも、「一病息災」にして「ピンピン・コロリ」を目指せそうな心境にされています。

 人間とは弱いものです。この度は「三度目の正直」にしたくて参加しました。63kg前後に保ちたく思っている体重が3kgも増えていました。網田さんも、初回の後のような体の柔軟性を失っているように見えました。それは私にも責任があります。網田さんと会食すると、ついいつも楽しくなって酒を勧めてしまっていたからです。いわば「反省」の3回目でした。

 おかげで、日本最古の寺・飛鳥寺で、日本最古の仏像・飛鳥寺大仏を見学(800円)する機会を得た(学生時代の実習と、商社時代の先輩に案内してもらって以来の、久方ぶりの3度目でした)だけでなく、初めて日本最古の神社・飛鳥坐(イマス)神社の境内に踏み込むこともできました。おかげで、飛鳥時代の様子や明日香村のありようをやっと立体的に認識できたような気分にされており、とても気力を高めてもらえたように感じています。

日本最古の寺・飛鳥寺

飛鳥寺大仏
 なんとしても私は、野菜や燃料ぐらいは自給できる生き方を2025年まで保ちたいと願っています。それは後期高齢者になった私にとっては85歳まで、と同じ意味ですが、さほど難しそうには思われなくなりました。なぜ2025年かといえば、そのころに人類は断末魔のような失望感に襲われており、うろたえるに違いない、と見ているからです。その時まで気力をたもてたら、何らかの役に立てそうに思われてしかたがないのです。

 その意味で、このたびのロードワークは有意義でした。網田さんから、歩み始めて間もないところで、「品とは?」、「何でしょうね」と、1つの設問を投げかけられたからです。まさに、2025年ごろに、人類は「品」を問われることになるに違いない、と私は見ています。しかもその品は、今日とは異なるモノサシで計らなければならなくなる、と思われるからです。

 セミナー会場は飛鳥寺の研修会館でしたが、(セミナー2日目から始まった)ロードワークは、この会場を起点にして、飛鳥川に架かる「男綱」の側を越えて「女綱」の先まで、約10kmを往復することになっていました。ちなみに、日本最古の神社・飛鳥坐(イマス)神社はこの会館の裏隣りと言ってよい位置にありました。

 網田さんと私は個別の問題を抱えており、「男綱」から2kmほど先にある飛鳥川上坐宇須多岐比売命(カミイマスウスタキヒメノミコト)神社で一息入れ、(そこは全行程の8割がたのところでしたが)反転することにしました。その一息入れた間も「品とは?」と、自問しています。そして、心ひそかに、20年前の「品」に関する思い出に浸っています。

 最初のロードワークでは、往路の家並みの一角で赤いユキノシタを見ています。帰路では、飛鳥川の畔にまで下りており、かの飛び石を渡ることができました。

 「年月もいまだ経なくに 明日香川 瀬にゆ渡しし 石橋もなし」(万葉集巻7-1126 年月もまだ経たないのに、明日香川のあちこちの瀬に渡ししておいた石橋もない)と詠われたたぐいの飛び石です。

 「豊かさ観」も大きく変わりそうだ、と考えました。わが家では、たとえば水道水や電気をケチケチ使ってきましたが、それは「豊かさ」を求めてのことです。率直に言って、それは経済問題としてとらえてはいません。それなら、太陽光発電機の有償設置などイの一番にするようなことはしません。もちろん、南北問題などに配慮してケチケチしているだけでもありません。家族をはじめ、近しい人との絆を大切にしたいからです。それがどうして近しい人を絆で繋ぐのか、その意味を多くの人が気付くのが2025年ごろと見ているわけです。まず食料問題から断末魔のような状況に追い込まれることでしょう。

 もちろん食糧問題についても、私は私なりに頭を痛めていますが、この度は橋本宙八さんから素晴らしい言葉を聴きました。前回の週記で「ヒトはいつ人に」なるのか、と気にかけましたが、そのかいがあった、と思わせられましt。

 橋本宙八さんは、サラリと「食生活をコントロールすることによって、人間だけが運命を自在に方向づけられる」と私たちに語り掛けたのです。「運命を」であって、「健康を」とか「寿命を」ではなかったことに惹かれました。初回の半断食セミナーで、食糧問題について霧が晴れたような気分にされましたが、その感をことさらに強めることができました。

 2回目のロードワークから、私たち2人は変則を許され、距離の踏破は大目に見てもらいましたが、歩行時間は他の人たちより1時間余も長くなるほど楽しんでいます。

 まず、真夏のごとき好天の下、橘寺(800円)を目指しており、距離は正規コースの4掛けでしょうが、所用時間は正規の人たちを超えました。展示物の鬼瓦やインフレを実感させる石柱に足をとめたり、特別展示物館の案内人に網田さんが奇妙な質問をし、それが縁で二面石を背に写真を撮ってもらえたりしたからです。初見のツバキの花もありました。

 鬼瓦を見つめながら、田舎に残して来た妻をしのんで泣いたという旅する男の逸話を思い出しましたし、玉垣ではインフレによって貨幣価値が瞬く間に2分の1に、その半分に、あるいは10分の1にとドンドン減価した敗戦後の、子どもながらの体験を思い出しました。

 3日目以降も好天が続き、帽子やサングラスを忘れた2人は手拭いで日差しをしのぎながら、国営飛鳥歴史公園・甘樫丘展望台を目指しています。その往路で、農家が苗代に土まきをしていました。トボトボと登った展望台から、大和三山が望めるはずでしたが、天の香具山は新緑に阻まれていました。しかし、その方角を睨みながら、耳取山と畝傍(ウネヒ)山との大和三山の中心にあったといわれる藤原京を瞼に描きながら、1400年前をしのび、居場所を100年で替えたこの都の運命に想いを馳せています。今も明日香村一帯は水に恵まれていませんが、当時は人口過剰となって、人口密集が進むとともに疫病などにも悩まされたことでしょう。

赤いユキノシタ

橘寺

二面石を背に写真を撮ってもらえた

初見のツバキの花

鬼瓦

玉垣

玉垣

甘樫丘展望台を目指しています

農家が苗代に土まきをしていました

天の香具山は新緑に阻まれていました

 往路で見た苗代まで戻ってきたときに心打たれたことがあります。網田さんが指さした先に、小さな花束がたむけられていたのです。その目で見ると、多くの農家が自家消費用野菜の栽培に力を入れていることに気付かされ、この村人の心豊かさをしのんでいます。

 家並みがとても豊かでしたが、それはある男の情熱が実を結んだという「明日香村家並み保護条例」のごとき条例のおかげだそうですが、こうした条例を許した村民の心にも喝采を送りたくなっています。しかし、醜い電柱はまだしも、自動車道の普及や、さらには自動販売機の設置やコンビニの出現を許しており、「今さら」と先を思いやられています。

 4日目は、高低差(石階段)に挑戦した3日目のコースに代えて、再び距離に挑み、高松塚古墳に向かっています。まず石槨の底部と蓋と見られる「鬼の俎板」「鬼の雪隠」を訪れており、そこでサイクリング散策中の4人連れの親子と出会い、聞き耳を立てました。平坦な舗装道路で待ち受けていた父親が、狭い坂道から自転車を引いて下って来た息子に声をかけたことから始まり、母親の言葉で終わった次のような会話です。

 「何もなかったやろ」

 「怖くなったから返って来た」

 「夢と希望と冒険があった、と言い(なさい)」

 この女性は、この1人息子(で終わりそう)をいかに育てようとしているのでしょうか。この子を待ち受けている未来を、どのように見据えているのでしょうか。

 私たちは平坦な舗装道路を進み、出荷用のスイカ畑の側を通り過ぎ、真夏のごとき風にさいなまれながら「やっとこさ目的地に到着」と思いきや、古墳自体はさらに900m余も先と知りました。表示板によれば、国営飛鳥歴史公園・高松塚周辺地区に踏み込んだだけで、坂道を往復2qも歩かなければいけないことを知りました。「やめときましょ」となり、国営飛鳥歴史公園館の見学をもって折り返しています。その公園館には盆地一帯がジオラマでしゅかいされており、飛鳥村を立体的に認識できました。帰途、亀石に立ち寄りましたが、記憶よりも大きかった

 最後のロードワークは、研修会場裏隣りのような「飛鳥坐神社」の石段を登ることから始めました。この神社には陰陽石が随所に並んでおり、ロードワーク初日に観た「男綱」を思い出させました。「男綱」の側で聞かされた言い伝えや、まだ見ぬ「女綱」に想いを馳せたわけです。この村では、かつて出生増を村を上げて願っており、さまざまなガンを賭けていたようです。

小さな花束がたむけられていた

醜い電柱

「鬼の俎板」

「鬼の雪隠」

「鬼の雪隠」

散策中の4人連れの親子

記憶よりも大きかった

陰陽石

陰陽石

狭い坂道



 次いで、1999年発見、2000年2月発掘の亀型石造物を見学するために小高い丘の裾を伝うようにして歩みました。亀型石造物は全長2.4m、幅2mと、思っていたより大がかりな単独の石を掘り出したシロモノ(300円)でした。この上手にあたる位置に、小高い丘の中腹に、酒舟石があります。これはさらに大きな単独の自然石を加工した石造物ですが、何者かが幾つかに割り分けて、石材として活かそうとしたような加工跡がありました。

 最後は、奈良県立万葉文化館を見学しており、200年ほど続いたという万葉時代に想いを巡らせています

 かくして飛鳥板蓋宮跡一帯を6日にわたる徒歩によって巡ったわけです。ついに「女綱」を視ずじまいになりました。そのところどころに、ポツリポツリと、自動販売機や茶店などがありましたが、2人は「見たらあかん」「見たらあかん」と戒め合いながら、水の一滴もルール違反をせずに済ませています。

 翌7日目の最終日は、品数の多い昼食の後で解散。

 10割そば屋(で、並みを賞味。実は、大盛を予約してありましが、昼食がつくと知ってケイタイで並みに替えた)を皮切りに、明日香村発掘資料館、その隣の農産品直売所、橿原神宮(紀元2600年式典や大勢の出征兵士が「次は靖国神社」とカツを入れられた光景に想いを馳せた)、その境内で開かれていた陶器市(陶板調理器を買い求めた)、その日本一の大鳥居、次いで三輪神社まで足を延ばし、縁起が良かった(参道を歩んでいるときに「ここで灯篭に火が燈れば」と網田さんがつぶやくと同時に、燈った)ので(参拝の後)気を良くして三輪にゅう麺を賞味。わが家を目指しています。

 


単独の石を掘り出したシロモノ

石材として活かそうとしたような加工跡

石材として活かそうとしたような加工跡

石材として活かそうとしたような加工跡

万葉時代に想いを巡らせています

万葉時代に想いを巡らせています

万葉時代に想いを巡らせています

万葉時代に想いを巡らせています

万葉時代に想いを巡らせています

10割そば屋

10割そば屋

明日香村発掘資料館

明日香村発掘資料館

明日香村発掘資料館

明日香村発掘資料館

橿原神宮

橿原神宮

日本一の大鳥居

日本一の大鳥居

三輪神社

同時に、燈った

同時に、燈った