文明と文化の峻別を語らいました。これまでは、私たちは文明の恩恵を享受しようと願ってきましたが、それはまるで「イブ」が食べた「リンゴ」を求めていたような欲望の追求ではなかったでしょうか。そのような想いをこめて私は語らいました。
文明は「共同体を形成する必要がない」ような錯覚を与えるだけでなく、「自己責任能力や自己完結能力さえ不要」のような錯覚も与えがちです。言葉を替えれば、「お金さえあれば、誰でも1人で生きてゆけそう」な気分にさせます。
問題はこの3つ「共同体を形成する必要がない」「自己責任能力や自己完結能力さえ不要」そして「お金さえあれば、誰でも1人で生きてゆけそう」との生き方の味をしめ、油断し、馴れきってしまうところではないか。それがココロやカラダをむしばむ文明病のであり、その集団発生が今の世の中を現出させたわけでしょう。その点を見つめ直す必要がりそうです。
ついこの間まで「水と安全はタダ」と思われていたのに、それらがとても高くつく国にしてしまっていた。ついこの間まで「1億総中流」であったのに、「貧富格差」や「勝ち組、負け組」という言葉をはやらせる世の中にしてしまった。
貧しくともよい、幸せであればよい、と私は思います。私たち日本人は、ついこの間まで「貧しさを恥としていない人々」と見られており、欧米の心ある人たちに敬意を払わせていた。それはそうした文化を形成していたからです。その文化を、工業文明は木端微塵にした。
その発句がエコノミックアニマルであり、挙句が異常気象、資源枯渇、自然汚染など、挙句の果てが孤独死であり、家庭崩壊ではないでしょうか。
どうやら「文明は不信感や不安感の醸造装置のような働きをする」一面がある。対して、「本当の文化は絆の醸造装置として作用する」ものではないでしょうか。
欧州で、かつて巻き起こった「ジャポニスム」は、この文化にたいする憧憬ではなかったでしょうか。その憧憬が形成させた創造物の1つのジャンルが「印象派の絵画」であり、その「印象派の絵画」に、近代人は心惹かれるようになっている、のではないでしょうか。
現在、NHK-TVでは、『花とアン』を放映中ですが『花子とアン』は、このあたりを掘り下げてくれそうです。
私は今、なぜか『チャタレー夫人の恋人』を思い出しています。かつて『チャタレー夫人の恋人』を読み直したときのことを思い出しています。
最初に読んだのは文明の洗礼を受け始めていた高校生時代でした。印象に残ったのは、スミレの花を押しつぶした「アロウズドボディー」などであり、『太陽の季節』と同レベルの本、程度の受け止め方でした。そして、「チャタレー」裁判に、一定の理解を示しながら、つまり「表現の自由」の逸脱と感じられ、成行きへの好奇心に駆られています。
再読した時に、文明に毒された当時の自分を反省したり、これを猥褻と見た当時の権力に想いを馳せたり、それを反省して全訳を許すようになった時代の到来に安堵したりしています。実は、この間に「ワイルドの至言」を知るに至っていたのです。つまり、貴族にとっては芸術、庶民にとっては犯罪(猥褻)といった領域がある、といったような言葉でした。
『花とアン』では「白蓮」を登場させていますが、実存の「白蓮」はたしか日本版の「チャタレー」のような一面があり、「タンコ節」のモデルではなかったでしょうか。
なぜか、私は『野麦峠』を思い出したり、20年前の「品」に対するわが意見を振り返ったりしながら『花とアン』を鑑賞したく思っています。
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