素直に反省して、すぐさま手を着けられなかった
 

 

 私たち夫婦は、激しいケンカをしますが、「ケンカの度に仲良くなっています」とヒトサマにうそぶくことにしています。実は、それには秘訣が隠されているのです。これもヒトが人になる1つの秘訣ではないでしょうか。

 先に交わした約束は「ケンカ」の最中でも必ず実行しますし、実行してきたことです。それは、ケンカのテーマに、個人的な気ままは持ち込まないように心がけているからです。たとえば、大ゲンカをしていても出勤時間がくると、妻はプリプリしながら車をだして私を最寄り駅まで見送ってくれました。もちろん私も、先に交わした約束があれば、がなり声を張り上げながら実行してきた、と言っていいはずです。なぜなら、私の方がそれに違反しやすい立場ですから(経済力や腕力にまさる)私は、自己抑制策を自らに課せてきました。いわば、安全装置を外したピストルを妻に常備させたような立場に私を追い込んでいることです。

 わが家の生活は、互いに得手を発揮しあうことによって成り立つ豊かさを追求していますから、他方が引き受けた役目を放棄すると、もう一方の努力が水泡に帰しかねません。それは無駄を生じさせるだけでなく、相手に対してとても失礼なことになりますから、お互いに失礼になることは控えることに、あるいはおのずと控えざるを得ないことにしているわけです。

 わが家では、家事仕事は取り合いになっても、押し付け合いは生じません。要は、最も望ましい「わが家流の文化の構築」に、つまり理にかなった分担(得手の分担)に努めているからです。家事の多くを妻は手放しませんし、私は力仕事や怪我しかねない作業を引き受けています。文化は、いわばその約束事を基盤とするいわば相互信頼装置ではないでしょうか。それを守れない人は、あるいは家族は村八分になったのでしょう。かくして固まってゆく約束事を基底文化と呼んでもよいのではないでしょうか。

 「花子とアン」でいえば、姉は奨学金を得て勉強に精を出し、妹は身売りされて労働に精を出していますが、互いに身の程を知った精いっぱいの得手の発揮ではないでしょうか。

 今日の弊害(屋内別居、孤独死、家庭崩壊、あるいは老齢離婚なども含めて)の多くは、(各戸なりの、あるいはそれを包含する地域なりの)基底文化を尊重せず、構築しようとせずに過ごしてきたところに起因している、ように私は観ています。

 昨今は、文化(約束事)を煩わしく思い、文明に溺れて「欲望の解放」に走り、肝心の「人間の解放」を手薄にさせてきたように思われてなりません。気ままや選り好みなどの「欲望の解放」を「人間の解放」のごとくに誤解させ、ビジネスチャンスや施政テクニックに活かして企業社会のあり方に大いなる責任があると思いますが、それに載せられる(消費者は王様とおだてられる)方も不用心だと思います。それは、心身を消費させ、多くの人を「おかねの奴隷」や「欲望の奴隷」に陥れて来ましたが、それが文明の特色である、と睨んでよいでしょう。

 今の中国は、この文明病の第3期症状あたりにあるのではないでしょうか。わが国は末期症状でしょう。このいずれの国が先に文化体質の国として復元することができるか、その中身の如何も関わるしょうが、その立ち位置や真の豊かさだけでなく、歴史も大きく変えそうです。