電気スクーターの2人の青年に唖然

 

 帰宅すると、私の帰りを待ち受けていたかのような2人の若者が、門扉の近くたたずんでいました。スクーターのような小型の赤いバイクで旅行中、と見ました。どうやら私を待っていたのではなく、庭に出ていた妻が戻ってくるのを待っていたようです。その用件を聞いて、私は耳を疑いました。

 このミニバイクは電気バイクで、100Vの交流電気で充電できる代物でした。

 家庭用電器で充電できるから「充電させてほしい」との用件でした。私はとっさに、アパレル時代のクレームに対応した折の経験を思い出しました。クレームとは「正当な要求」ですが、その会社では「いいがかり」のように受け止めていました。

 私はクレームを「正当な要求」と位置づけ、正当な要求をしていることを自覚してもらえるように説き、自負心を抱いて帰って行ってもらえるように、と努めました。その詳細は拙著『ブランドを創る』で述べましたが、とても良い思い出です。

 当時、この会社に持ち込まれたクレームの大半は、タレントとヤクザと呼ばれる人たちの間で人気があったブランド商品であり、クレームはヤクザと呼ばれていた人からが主でした。

 結論を急げば、すべてのクレームは「正当な要求」でした。つまり「正当な要求」をして当然である欠陥を抱えていました。問題は、その要求の仕方に「首をかしげざるを得ないところ」があったことです。短絡に言えば、「目をつぶってやるからそれ相当の駄賃をよこせ」とでも言ったような意図が見えたことです。私は根気よく「正当な要求」であることを説きました。

 その正当性を明確にして「社会の利益」に結び付けるべきだ、と説いたわけです。もちろん、「会社には金はあるやろ」と怒鳴られたり、「勘を働かせ」となじられたりしました。「金ならなんぼでもある。ただし、不正に振る舞える金はない」と突っぱね、「正当な金にして受け取るべきだ」と勧めました。「ラチがあかん。社長を出せ」ともしばしば怒鳴られもしました。それにも応じませんでした。なぜなら、不公正になることが生じることを恐れたからです。一度そうした事例を社長がつくってしまい、その後は私が最終責任者になっています。

 仮に、その個別の要求に「口止め料」のような形で出金したらどうなるか。その金は、他の多くの顧客のお買い上げ代金の一部です。いわんや、「正当な要求」をすべきなのにしていない「声なき声」に不利益になるのはまだしも、失礼なことになります。それは避けたい。

 また、結論を急ぎますが、クレームをぶつけてきたヤクザと称された人たちはすべて立派でした。私の「不公正には断じて応じられない。あなたが逆の立場ならどう思うか」との意見に耳を傾け、「不当な要求の仕方」を退け、「正当な要求」をしただけの(商品対価や代替品を求めない)人として引き取ってもらえました。

 もちろん余談が2つ、つきます。それは、まず会社も個人も「社会的に隠さざるを得ない秘密をつくってはいけない」ということです。2つ目は、公私ともにこの鉄則を守る必要性を教えてもらえたおかげで、私は人生が愉快にな(り、対峙した人たちに感謝するに至)ったことです。

 さて、本論に戻ります。電気バイクの2人の(学生と思しき)青年です。

 「家庭用電器で充電できますから」と語り、充電させてくれという要求が「不当な要求」をしているとの自覚が見られなかったことです。

 「そうか、ガソリンスタンドを当てにせずに済む、と考えているのか」と皮肉りました。メーカーは「タダでチャージできる」と気づかせるようなイメージを抱かせて(おけば、充電させる人を見つけさせられる、とほくそんで)いるのではないか、とも疑いました。

 「このバイクを買ったメーカーに、買う前に充電施設の普及を迫るべきだ」と助言もしました。ちょうどその時に、妻が畑から戻って来ました。手短に2人の青年の願いを告げると、

 「あなたたち、何を言っているのか分かっているの」と、まず一喝しました。私が文明ボケしたようなことをしたり言ったりした時の勢いです。次いで「これからは帰る分の充電もして、出かけなさい」と説いたうえで、「かついで帰りなさい」とまで言ったのです。おかげで、私の一抹の不安を解消することができました。

 かつて私は一度、ガス欠を体験しています。来客を最寄り駅まで送ろうとしてガレージを出たところで、エンストです。もしこれが路上なら、と青くなったことがあります。

 その心配は不要でした。2人はバイクを駆って去ってゆきました。