意見派と事実重視派
 

 

 日本の女性に「ヘビを捕まえることができますか」と問えば、大概の女性は「捕まえられません」と応えます。もちろん、捕まえたことがある人が「捕まえられます」との事実を応えることがありますが、大概は「捕まえられません」と意見を述べます。

 逆に、たとえばアメリカの女性なら、「分かりません」と応える人が多い。ヘビが嫌いだから、あるいは怖いから、捕まえたことはないけれど、捕まえなければならなくなれば、捕まえられるかも知れない。あるいは捕まられるのではないかと考えて、応えるからです。

 この彼我の違いに気付いたのは、商社時代のことでした。A雄とB子が映画に行ったことが話題になった時のことです。私たち日本人は、この2人は「できている」かのように勘繰りましたが、アメリカ人は、この有名な映画を「この2人はともに見ていなかったのだ」と考えていました。

 そもそも日本語は、文法の構造上、あるいはイエス・ノーの表明が不明確ですから、賛成か反対かが最後まで聞かないと分かりにくい、という欠陥もあります。それが自ずと、事実を積み上げながら対話することを、困難にしているのではないでしょうか。

 余談ですが、太平洋戦争記に触れていて、時々いらいらされたことがあります。不要な犠牲を多くの兵士に払わせた負け戦が、あまりにも多く見受けられたからです。その原因は、事実重視派が育ちにくく、意見派が大勢を占めていた日本の風土、と言ってよいでしょう。

 下された作戦(の前提条件)と(前線の指揮官が掴んでいる)前線の現実が大きくかけ離れていても、多くの指揮官が「勝って見せます」とばかりに啖呵を切り、勝ち目がない作戦を展開し、多くの兵士を犠牲にして敗退。「ごくろうさん」とねぎらわれる事例が多かった。

 逆に、前線の現実を突き合わせて判断し「勝ち目が少ない」ことを覚悟してもらった上で作戦を展開し、敗退すると、多くの兵士を犠牲にした責任を追及される事例が多かった。

 今週は、未花ちゃんの(植木鉢を割った)事件でも、4つの事実の表明やそのつなぎ方に私は疑義をはさみました。まず、「私は慌てました」との情報が欠けていた。また、これからもゴムははずれることでしょう。「ならばゴムが外れるたびに植木鉢は落ちるのですか」との質問が出来そうなつなぎ方でした。でも、このケースでは、私の不徳を恥じています。

 哲範さんにも、似たような事例があり、注意しています。