望ましき親の愛

 

 それは宙八さんの次のような話から始まりました。子どもが歩けるようになると、わが家では「食べ物は、待っていても出てこない」と教えるようにしてきました。

 ちあき夫人は、子どもたちは「山の幸をたくさん採って来る」のだけれど、どこで採ったのかを「教えてくれなかった」と笑い、「どこで遊んでいるのか知らなかった」とつなぎました。後年「こんなところで遊んでいて、よく生きていたな」と、おもったものです。「滑ったら、落ちて死んでしまう」ところでした。「でも、大怪我をした子はいません」

 「常に生傷が絶えなかった」と、次女のあすかさんが後を引き継ぎました。そして「都会に出て分かったことだけど」と断りを入れたうえで、「これを知らないで生きている人がこんなに多くいるなんて」「気の毒、とは言えないけれど」「おしいなア」と思ったものです。そして、「人が造ったモノは、後でも学べるけれど、これはそうはゆかない」と微笑みました。

 私が自説「三匹目のねこ」を思い出し、意見を述べようとしましたが、控えました。「卓道は」と、あすかさんが先に口を切ったからです。「弟はおむつをせずに育てられています」と。ちあきさんも「卓道は」と過去を振り返りました。「18歳で初めて東京に出たのですが、『何かが違う』と首をかしげて」おり、やがて「『東京は直線ばかりだ』と気付いていました」。彼は14歳でいわきを離れ、18歳までオーストラリアで過ごしています。

 私はこうした育て方を聴かせてもらいながら、子どもより早く死くなざるを得ない親の愛であり(子どもにたくましく生きてほしいと願う)望ましき育て方だと思っています。

 口がきけない幼児期から、「ウンチがしたい」「お腹が空いた」といったような意思表示を(泣いてではなく)親に伝えるすべを身に着けさせる。山菜の獲り場や採り方を会得させて存在意義に気付かせる。そして、その存在意義を発揮しながら家族の一員として助け合い、誇りを抱かせる。こうした育て方が一人前の人間に、つまり日々刻々小さな大人に育くむはずです。そしてこうした育て方が、意思表示が明快な(コンシステントな)人に育てるに違いない。

 もっとも、私には子ともがいませんから「子どもには何を授けるべきか」など語る資格はないのかもしれません。しかし、10歳も年下の妻と結婚した時に、真剣に考えたことがあります。それは、先に私が死んだ後のことでした。平均的に言っても15年は私より長く妻は1人で生きてゆかなければなりません。ですから、妻が熱い間に、何を年長者として授けるべきか、かなり真剣に考えています。きっと、子どもをもうけていたら、もっと真剣に同じことを考え、願っていたと思います。それは、自己完結能力です。自己責任の下に持てる創造能力を存分に発揮し、自立する力を授けておくことではないでしょうか。間違ってもペットのように甘やかしてはいけない、と考えてきました。

 TOSCAでランチをご馳走になりながら、幸せそうな野菜や穀物を見てうらやましく思いました。たとえばこの日のキャベツ。丸ごと縦に10幾つに切り分け、その1辺がメインディッシュに生かされていました。あすかさんは食材に合わせて、次々と初めて試みる料理を生み出しますが、よく「味見を忘れる」人で、私は料理の即興詩人のように見ています。

 それは不自由ないわきの山の中で育ち、ありあわせの食材で、いかにおいしく家族が食べられるように調理をするか、と知恵を絞って来たからでしょう。これも、望ましき親の愛が育んだ賜物だと思います。この半世紀、私たち日本人は工業文明にならされて、つまり企業の誘導に甘えて大きな忘れ物をしてきたように思います。

 こんなことを考えながら昼食を終え、送り出してもらいましたが、その時にアイトワの野草と再会しましたこの姉妹はかつてアイトワの土を求めて訪ねたことがあります。その折に種も一緒について来ていたのでしょう。

 網田さんの車に乗ってから、共通の思い出にふけりました。それは宙八夫妻から、うれしい願い事を聴かされたからです。それは、網田さんと一緒に飛鳥で『半断食研修』のお世話になりましたが、その折に私たち2人が組み立てた自主ロードワークに関する相談でした。

 私たち2人はハンデを(中身は異なりますが)抱えています。そこで、飛鳥に詳しいスタッフ(当研修でヨガの指導を受けた)の意見を聴きながら、(この研修の意義や意味をそこなわずに、つまり同じく有効と思われる)自主プログラムを組んだのです。それを宙八夫妻に評価してもらえただけでなく、私たちと似た立場の人などに転用してもよいか、と相談されたのです。依存があろうはずがありません。まるで厳しい躾を授ける親に褒められた(社会的存在意義を認められた)かのごとくき心境になりました。

 そういえば、「鬼の雪隠」で素敵な親子連れと出会ったなあ、と思い出しました。少し険しい道を偵察に行かせ、やや怯えて帰って来た息子が「何もなかった」と報告すると、母親はすかさず「夢と希望と冒険があった、と言い」とけしかけていたことです。

 

ヤ昼食を終え、送り出してもらいました

アイトワの野草と再会しました

この姉妹