哲範さんを褒めています

 

 庭のトイレを作ることになり、さまざまな付随作業、地ならし、移植、あるいは大胆な剪定などの必要性が生じました。

 まず、ハコネウツギは大胆に剪定し、剪定クズで挿し芽を試みました。

 2本のサザンカは、道を付ける時点で邪魔になるわけですから、後日佛大生に移植してもらおうと思います。佛大生に、このトイレのためにグミの木を掘り取ってもらっています。

 かなり大きな株のアジサイは移植することにしました。切り取った花は2つの花瓶では足らないほどでした。その掘り出しは私が受け持ち、移植する場所の穴掘りは哲範さんに頼みました。そこはイノシシスロープの中ほどの土手(斜面)で、このアジサイがうまく育って花を咲かせば、野小屋からイノシシスロープ越しに覗き見えそうな位置です。

 2日がかりになりましたが、哲範さんは十分大きな穴を掘りました。もちろん途中で2度、見かねた私がとってかわり、竹の根をブチキリ一振りでブチ切っています。こうした力を身につければ、包丁の使い方や切り口にも迫力がこもるに違いありません。もっとも乙佳さん(調理人から大工に転職)のように、この逆のこともいえるでしょう。

 問題はこの後でした。アジサイの最後の直根を掘り出すために、私がブチキリを振り回していると、通り合わせた妻からストップがかかったのです。哲範さんが私の側にいなければ、妻がとってかわっていたことでしょう。言われてみれば、哲範さんにさせてあげないと、いつまでたっても庭仕事の本質を会得できないことでしょう。そう思って、代わりました。

 結局、掘り出そうとしていた株は、3分の1の大きさになってしまいました。ブチキリの刃の入れ方が斜めになり過ぎており、肝心の根を横からたたき切るようなり、根を痛めたからです。

 でも植え付ける時に、クリーンヒットがありました。大きく掘った穴に、小さくなった株を入れて土を被せたわけですが、その時に、哲範さんが土を箕に一杯分、取り置いていたことです。間髪を入れず私は「素晴らしい」と叫びました。土を土手からいたずらに滑り落とさせるばかりが脳ではない、と考えたと見たからです。少し大げさですが、「2階級特進」に値する、と私には思えたのです。

 実は、週初めに「1階級特進」に値することを哲範さんが行っていました。それは、雨と予報された前の日の夕刻に、無煙炭化器(の灰が濡れないよう)に哲範さんはビニールシートを被せていたのです。

 何事もそうでしょうが、言われたことをしているようでは、私はものたりません。

 願われているように先手を打てるようになりたい、と願って私はこれまで働いてきました。

 さらには、願われてはいないけれど、「これが願いだった」とでも言ってもらえるような働き方がしたいと考えて、これまで私は励んできて、いまは幸せに思っています。

 もちろん、ワイルドではありませんが「貴族にとっては芸術、庶民にとっては犯罪」という領域もありますから、用心してきたことも事実です。たとえば、かつては空気や水を汚し得でしたが、今や犯罪になりつつありますが、早くから用心してきました。

 少しカッコウよく言わせてもらえば、それが自分や家族のためというよりも、自分や家族も乗り合わせている船のためになる、と思うゆいなったからです。

 そのうちに、いろんなことに気付かされるようになり、ついには文化派(それぞれの土地柄に即して、持続性がある生き方を編み出し合い、その約束事としての文化を尊ぶ人々)が支配する空間に憧れるようになりました。さらに、その空間をとりしきる文化に忠誠を誓う生き方が心地よくなり、その生き方に励むことが生きがいかのようになりました。

 しかも、その生き方が日々の身のこなしを芸術化させることに気付かされました。いわば、「作る」から「造る」へ、さらには「創る」へと自分の意識を昇華させてくれるかのような心境にされたわけです。何てことはない、この度は「茶道」の見学をしましたが、わが国はあらゆる活動を「道」にするかのごとき風土を誇ってきたことに気付かされています。

 少し長々となりましたが、哲範さんが土を大切にしたことを、その第一歩を踏み出した証ではないか、と思われたのです。もしそうであれば、せめて休日は「家族3人が揃って公道の掃除をするように」と助言しておいてヨカッタと思っています。社会的役目を果たすことで、家族の心が一つになることが本当の家族の結束ではないでしょうか。