ハッピーを葬送
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老いさらばえる、とはこのことでしょうか。火曜日、私が亀岡に出かけている間に大変化がありました。妻は「どこにもぐりこんできたの、」と問いかけながら、「ハッピーの天命」を予感した、と言います。「おが屑が毛の中に一杯入り込んでいる」ように見えたそうです。なんと、ハエが毛に卵を産み付け始めていたわけです。それから、妻はブラッシングに余念がなく、ブラッシングではらちがあかないと知ると、行水させていました。 過日、ハッピーが墓穴にはまり込んだ(?)ことがあり、一昼夜眠っています。その折に、妻の友人が「お友だちの話」ですがと言って、似た話を聴かせてもらっています。それだけに、本当にはまり込んでいたのだろうか、自ら入ったのではないか、と思いもしました。 「可愛そうだけど」と私が(ハエが入り込めない)風除室に閉じ込めることを提案したのは水曜日の朝です。妻から「いいんですか」と意外な返事が返ってきました。たしか「ケンも、最後は風除室で過ごさせたはずだが」と記憶をたどるにとどめました。 「よかったねエ」といいながら、妻はハッピーを抱えて風除室に移し、パラソルを立て、日陰を作ってやっていました。もちろん、私が抱いて移すことを提案したのですが、「私が」といって妻が移し、身を整え直してから人形工房に下りてゆきました。 「そういえば」と、思い出したことが2つあります。「ケンを風除室で過ごさせたのは冬だった」。電気行火(アンカ)を取り出してもらい、特製のベッドを作っています。その時は、私が重いケンを風除室に運んでいます。その後をついて歩いた妻が、その後、時々思い出して語ることがあります。抱かれたケンがシッポを振っていたというのです。 その時のケンより、ハッピーの方がきっと症状が悪化していたのでしょう。そうと私が知ったのは木曜日の朝のことで、妻が側によっても立ち上がらなかった、と聴いた時です。 風除室に移したハッピーに妻は牛乳を舐めさせていました。前夜は、いつものように餌を食べたそうです。ハッピーの食欲が、病状の悪化を、見誤らせたように思います。この点では、父の場合とよく似ています。 妻は好天なのに散歩をキャンセルし、10時まで看病しました。その後は私が引き受けることにしました。そのころ、ハッピーは自力で風除室から隣のワークルームに移動していました。これ幸いに、と私は看板の仕上げ作業に当たることにして、ハッピーの頭元(?)に影を作り(短大で倒れたときに、そうしてもらってとても助かった)、側で過ごし始めています。 電気ドリルを取り出して、看板を支柱に吊るす金具を取り付けました。支柱に看板をぶら下げる腕を取り付け、支柱の上半分に最後の防腐塗装をほどこす、と進めたわけです。 この間に、ハッピーは1度立ち上がっています。その意図を、今から思えば、私は読み取っていなかったわけです。まずフラフラ、と西の出口の方向に歩んで反転し、フラフラッと風除室の方に進み、私の足元でドタッと倒れました。今から思えば、過日佛大生が(土運びの折に、箕が割けるほどたくさん土を積んで)つぶした箕につまずいたのでしょう。「首が痛かろう」と思い、ハッピーの体をずらしながら、全盲であったことを思い出しています。そのままハッピーは4時まで寝込んでいます。 この間に、私は実に丁寧な仕事をしています。看板をぶら下げる腕と支柱に針金を渡し、補強することを思い付きました。この腕の上に雨除けの屋根を、とも考えて「樋を活かせば」ということに思い付いています。そのありあわせの樋の寸法が不十分でしたから、プラスチックごみの袋をアサリ、探し出した充填豆腐の容器を活かしています。 これらの組み立てをすませ、風除室に移動させて立ちあげ、支柱に最後の防腐塗装をしました。残っていた下半分です。これで乾けば仕上がりです。後は、所定の位置に運び、基礎をコンクリートで固めてしまえば完成です。この間、ズーッとハッピーは眠っていました。 この寝込んでいる様子を伺うと、呼吸が随分弱まっていました。そして気付かされたことがあります。なぜ妻が、ハッピーを風除室に封じ込める提案を私がするまで、入れずにいたのか、その理由です。それは悪臭でした。建具を閉め切っていた冬場のケンの時とは違い、悪臭が居間などに流れ込み、「くさい」と私が文句を言いかねないことを恐れたのでしょう。 実に不愉快な匂いを発散していました。それは、尻にガンの肉腫をこしらえたケンも同様で、ガン患者が放つ悪臭です。母は同様の肉腫を人工肛門の側に造りましたが、まったく同じにおいでしたし、同じ形状でした。母の場合は1度、ケンの場合は2度、切除しましたが、ハッピーは内唇の歯の外に造りましたから、私は手術をさせず、妻も得心していました。 「この匂いに耐えて1年半も、妻は母の看病をした」ことを思い出しました。 なぜか次に、南方戦線で戦病死した兵士に想いを馳せました。生きながらにしてウジ虫をわかせた、と聞かされたことがあります。何を考えながらあの世に行ったのでしょうか。 ここで妻に「臨終かもしれない」とナイセンを入れました。4時少し前のことでした。それから7時間、ハッピーは頑張りました。終始妻はハッピーをなでながら、呼び掛けていました。「ハッピー立っち」とまでけしかけますから、「かわいそうだよ」と私が押しとどめようとした時です。ハッピーはもがき始めたのです。妻は「オシッコかもしれない」とつぶやき、立ち上がらせました。丁度その時に義妹が駆けつけ、実に手早くそそうをした後を2人で片づけました。 その後、妻は所用で出あけ、また私は1人で見守りです。次にハッピーがもがいたのは1時間ほどしたときのことです。私は読書中でした。「きっとこれは」と思って立ち上がらせ、急いで西の網戸を開けに走り、取って返してハッピーのそばに立ちました。 思った通りでした。ハッピーはうんちがしたかったのでしょう。でも、衰弱した身体では無理であったようで、ツバキとジンチョウゲの根元のあたりで横たわりました。「もっと緑豊かなところに」と思案しましたが、ソッとして置くことにして、それこそ走馬灯のように想いを巡らせています。 安楽死について考えました。「ハッピーは心臓が強いから可愛そうネ」と妻は語り、「食欲もすごかった」と応え、金太の分まで横取りしたことを思い出しました。 ケンは、オシメをしてもらって最後を迎えています。母が自分用に用意していたオシメでした。母は小用を、もちろん途中から妻に付き添われてですが、屋内トイレで済ませています。大は、人工肛門ですから、ベッド脇に座り、妻に取ってもらっていました。その意思表示すらできなくなった最後では、ほんの数日ですが、妻はオシメを添えてやったようです。父は最後まで大小の始末を自分でしました。その間に一度だけお漏らしをして、妻に助けられ、その後は用心深くなっており、早めにトイレに通っていました。私の悪戦苦闘も思い出しました。心臓で入院した時のことです。自分で立って移動することが許されるまで辛抱し、酷い目に遭った思い出でした。 自然は偉大だ、とも思いました。ものの半時間もしないのに、ハッピーにハエがたかり始めていたからです。やむなく抱きかかえてワークルームに運び入れました。ほどなく妻が帰宅、私はバトンタッチして庭仕事に出ています。 そのころからハッピーは、実に辛そうな声を上げ始めたようです。妻が側に駆けつけ、さすっている間だけ静かになったそうです。その様子を庭仕事の後で聴かされながら、インドでのマザーテレサの活動に思いを馳せています。熱いさなかのインドで観た光景でした。薄暗くてガラーンとした屋内に、ボンボンベットより狭くて低いベッドがいくつも並んでおり、無色の寝具に包まれてピクッとも動かない臨死状態の人々が寝かされていました。そのそばには青年が1人ずつ付き添っており、膝まづいて手を握り、じっと耳を傾けているだけでした。しかし、その静寂さとひんやりとした冷気に、私の心までが落ち着いたのを覚えています。 かくして断続的に、妻は通算すると3時間余にわたって付き添っていました。11時に昇天。 翌朝、5時に2人は起きだし、葬送に当たりました。妻が亡骸をぬぐって毛布にくるみ、私がスコップンなどの手配に走りました。そして2人で墓穴まで運びました。父の時を思い出しながら、葬送の道のりを選びました。母屋を巡り、ハッピーのハウスがあるあたりに至り、温度計道を下ってパーキング場を通り、石畳道に折れて、墓穴にたどり着きました。ハッピーが好んで走ったり匂いを嗅いで回ったりしたところを一巡した勘定です。もちろん途中で一休みしています。 よくぞ伸幸さんは、と思いました。大きな墓穴を掘っておいてやってもらえたおかげで、硬直した遺体をそのまま安置できました。寝そべったまま東南方向を見渡せるようにして、半時間余もかかりましたが土を被せ、墓石を載せました。きっと妻は、自分もこの側で眠りたいものだ、と思っていたことでしょう。 |
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、ハッピーの頭元(?)に影を作り |
つぶした箕につまずいたのでしょう |
立ち上がらせました |
うんちがしたかったのでしょう |
墓石を載せました |
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