第一号鶏インフルエンザ事件
 

 わが国の鶏インフルエンザ事件は京都から始まっています。この時も偶然が縁で、その処理で最初に奔走した人をわが家に迎え入れたことがあります。徹夜が続いたのでしょうか、疲労の色が隠せませんでした。

 かねてから気になっていたことを私が問いただすと、ドッと涙を吹き出し、感情をこらえきれなくなった人がいました。何千羽もの鶏を次から次とビニール袋に押し込めてゆき(人間の安全のためとはいえ)地中に生き埋めにした作業を思い出したのでしょう。

 私はそれが、人間の安全のためではなく、むしろ禍根を未来に残す、いわば文明病の1つではないか、との意見を述べたのです。その切り出しは、こうでした。

 袋に詰めた鶏の中に、元気ハツラツの鶏がいなかったか、との質問でした。黒死病が中世欧州を襲った時も、(かなり調べましたが)村ごと全滅した話を聴きません。ですから、むしろ元気ハツラツの鶏が多数であったに違いない、と睨んでいたのです。

 当然野鳥も感染するでしょう。それが媒介するに違いない、と見ていました。人間が管理できない野鳥は、死ぬ野鳥は死に、耐性が出来た野鳥は生き残るでしょう。

 鶏インフルエンザ病原菌はといえば、より強力になり、生き残った野鳥をやがてむしばむまでになるでしょう。そのでもなお、免疫力を高める野鳥が現れて、生き残るでしょう。

 こうして、野鳥と鶏インフルエンザ病原菌は優性遺伝を重ねながら、イタチごっこのような競い合いをするはずです。他方、人間に管理された鶏は、優性遺伝を重ねる余地を与えられず、皆殺しの憂き目にあうわけです。その乖離の集積が怖い、と私は思いました。目先のことを優先し、未来を真っ暗にしかねない文明病の蔓延です。

 ですから、元気ハツラツなのに生き埋めにされた鶏の口惜しさが、身に染みて感じられたのです。その想いがワッと泣きだしたような人にも伝わったようで、感情を崩させたようです。

 人間はどうやら、劣性遺伝を美化する文明に甘え始め、今では立ち直れないほど冒されているのかもしれません。