高谷好一先生の『世界単位論』を読み始めていただけに、この旅ではいやがうえにも心が高鳴りました。かつて文明に目覚めた西欧人が(今日の混沌とした工業社会の現実から振り返って見れば、文明にさいなまれ始めていたわけなのに)文明を進歩だと信じて思いあがり、犯してしまった罪(たとえば、かつてアフリカなどの侵略地では、自分たちの都合がよいように国境縁を引いており、土地柄や文化を無視して住人を分断した)と似たような過ちを犯しているように見えたのです。かつての西欧人が犯した罪は無知のなせる業でしょうが、私たちはこの歴史的失敗を学び得るわけですから、わが国の行政が不用意な線引きをしているように思われてならなかったのです。。
この印象は、岡町や広野町などの細い路地で(いわば1本の直線で)居住制限地区と帰還可能地区に分断している情景を目の当たりにしたときに抱いたものです。
久之浜では未だ手つかずと言ってよい惨状を目の当たりにしました。その一角には(3年前に遺体が映し出された写真が日本でも報道され)非難の矢面に立った所もありました。
私は5歳で、京都に疎開した70年前を思い出しました。その後、爆撃後の西宮を母に手を引かれて訪れています。そこには、道行く人が覗いて行く白い壁だけ残した小さなビルがありました。その内部には、まだ焼け焦げて丸裸のようになった遺体が山のように積み上げられていました。私の生家は焼け残っており、6角形の筒のような焼夷弾が4本も落ちていましたが、いずれも不発であったおかげです。奇跡的に家は焼け残っていましたが、大勢の人が棲みついており、その人たちに感謝もされました。しかし、その後、父が(8年にわたって)病床にあったこともあって、母の手でどうにもならず、手放しています。なぜかこのようなことを思い出しました。
戦争も恐ろしいけれど、原発事故はもっと恐ろしいものだ、との思いにさせられたわけです。戦争と原発には共通点があります。共に欲望が手を出させるところです。前者は必勝を信じさせ、後者は絶対安全を信じさせ、大勢の人を翻弄し、一部の人が太るところに問題があります。しかし、この両者は何かが大きく異なります。その恐ろしさを、そのほんの一側面を、浜風商店街を訪れた時にも垣間見ました。
電気屋さんでは、地震、津波、火災、そして原発事故と続いた災難を、写真やビデオで再現しています。この、いわば4重苦のすべてを実体験した人々の輪の中に入ってみて、つくづく放射能の不気味さや問題の根の深さを思い知らされました。
体験者は、一番恐ろしいのは「そりゃー原発ですよ」と語り、「風呂敷に包んで捨てに行くわけにはいかないモノ」とつなぎ、放射能の不気味さを語りました、その一言は、原発事故がなかった場合の被災地と被災者を連想させました。この地方の人々は(辛抱強くて結束が固い人たちです)きっと今頃はココロを1つにして、復興のツチ音を鳴り響かせていたことでしょう。現状は、逆です。元気そうに聞こえる言葉の端々に、気だるさが感じられましたし、それよりも何よりも放射能が人々の心をバラバラにしており、結束しがたくしており、しかも不用意な線引きで、その溝を今も広げていることがとても悲しく感じられました。
この日の昼食は、たった1軒と聴いた食堂でとっています。店内は復興事業で集まってきた人たちで賑わっていました。そこには、後期高齢者は(一人私だけで、他に)見当たらず、もちろん子どもの姿はありませんでした。しかし、とても奇異に感じたことは、まだうら若い女性が働いていたことです。意気に感じ通られるに違いありません。
聞くところによると、原発事故現場には、「背中に絵を描いた人と、女性が結構働いていました」とのことでした。なぜか私は、戦時中の女子挺身隊を連想しました。
この被災地巡りの後で、ガイドと(このツアーを主催している旅館のロビーで)交わした半時間余のディスカスも印象的でした。この人は生まれた時から原発があり、長じて原発で(4次下請けの立場で)働いていました。そして、原発で働く人の仕事とは、と聞かれ「着替えること」と応えてよい、と言いました。着装品と体を密着させる目張りも大変、とのこと。
彼は、原発には「中立の立場」と、2度も語りました。しかし、口惜しさがにじみ出ていました。それは、福島原発で発電した電力がすべて東京に送られていたこと(福島は東北電力の縄張り下にある)も関係しているのでしょう。もし原発の安全が保証できるのなら、送電ロスが少ない消費地で発電すべきです。それだけに、政府や東電のあいまいな対応を許し難く感じられるのではないでしょうか。余談ですが、原発再会も、遠隔地から始めようとするでしょう。
このガイドは、私の次の意見にとても興味を示しました。きっと、翌日のツアーから、この考え方を見学者に語っているに違いありません。
安倍政権は原発再開を強行に勧めようとしていますが、原発を新たに再稼働する近隣住民は覚悟が求められている、との私の意見です。それは、福島原発では想定外の事故であったとの主張が許されてきましたが、これからの事故ではそうはゆかない、ということです。それだけに、覚悟をしておくべきことがある、ある覚悟が必定である、という点です。
避難について。国家の保証がないまま再稼働を許したら、住民は自己責任での避難を覚悟していたわけだ、と見られるでしょう。もちろん、被災保証も同様です。保証の確定はとても手間取ること(死ぬのを待たれているかのようなイラダタシサ)を覚悟する必要があります。その前例が示されていない時点で再稼働を許すことは、保証されないかもしれないことを覚悟していたわけだ、と見られかねないことです。こうした覚悟をした上で再稼働を認めたようなことになる、ということです。
宿泊は、福島本湯のかなり大きな宿でとりましたが、宿泊客は3組10人程度でした。風評被害にあっており、正規の従業員を抱えて営業しているのは3軒とか。他は震災復興要員を対象としたビジネスホテル化した、とのことでした。
翌日は早朝に出て、緑豊かな山道をレンタカーを駆ってどんどん走り、マクロビアンを目指しました。11時ごろに到着。昼食を御馳走になった後、まず宙八さんに案内願ったのは坊さんのお宅でした。
再会を喜びました。塾生3人と一緒に招き入れられ、なぜか「音楽でも聴く」と問いかけられ、ここで『短くも美しく燃えて』(モーツアルト)に聞き入ったわけです。
その部屋の片隅にはペットボトルに詰められたマムシがいました。「オヒサシブリ」と、久しぶりに目の当たりにしたマムシに挨拶しながら、わが家にも棲んでいたころを振り返っています。
坊さんと呼ばれている人は、高名な僧侶の下での修業を試みたようですが、「放り出されました」とか。300mほど先にある坊さんの離れにも案内してもらいましたが、この度も道中でモリアオガエルが同じ水場で産卵した痕跡が残っていました。
愛読書をはじめ、この度は多くのことを問われたり、意見を求められたりすることが続きました。離れにたどりつきましたが、何も変わっておらず、随所に薪が備蓄されていました。
次いで、岩城市の双葉郡川内村に足を延ばしました。そこは、日本最大の村であり、原発被災地でありながら、いち早く村を挙げて帰還宣言をしています。村長は被災後、チェルノブイリを訪れたそうで、その経験も踏まえて帰還宣言を出した、と聴かさえました。
まず、この村の郊外にあった広大で緩やかの傾斜地に踏み入れており、そこで随分多くの時間を割きました。この広大な傾斜地は、人の手で棚田のように3段に造作されており、幾つかの建物が点在していました。高地にはかなり大きなドーム型の建物もあります。低地はかなり横に広がっており、かなりゆるやかな棚田状の草地もあり、そこでは騎乗式の草刈機で整地をしている人影が見えました。
ここは知る人ぞ知る有名な「漠原人村」だ、と聴かされましたが、初耳です。20年以上も前から年に一度、3千人もの人が集っていたいわば1つの聖地、「満月祭」と呼ばれる催し会場でした。今年も、8月の満月の時に1週間にわたって開催されるとか。主催者の風見マサイさんとは(子どもを病院に連れて行かれる都合で)会えませんでした。しかし、マサイの息子・優人さんが里帰りしており、黙々と1000あるいはそれ以上のテントを張る用地の草刈りをしていました。一帯は年に1度、1週間にわたってテント村になるわけです。
マサイには、この息子の他に2人の娘もいて、2人は東京に出ているが、この息子と同様に、ここ一番という時には必ず帰って来て手伝う、と聴かされました。
マサイは、このイベント事業の他は養鶏に携わっています。311があった時は、2か月間栃木に避難しており、その間は週に1度は餌やりのために帰っていた、とか。
その年の夏も、放射線量を公表し「それでも」という人に呼びかけており、この催しを続けたわけです。もちろん例年よりも参集者は少なかったが、開催したわけです。その心意気はおおいにいただきたいところだけど、少し心が痛まないわけではありません。子ども連れの姿も多かった、と聴かされたからです。きっと子どもたちは広い草地に心を躍らせ、裸足で無心に駆け回っていたに違いないからです。
この「満月祭」は、長野で7000人もの人を集めて開催した「いのちの祭」がキッカケであったようで、その2〜3年後に始まった、とのことでした。
この催し用地を少し下ったところに、異なる人の手が入った一角がありました。足を踏み入れていると、ヤマカガシを見かけました。「オヒサシブリ」と、またわが家にも棲んでいたころを振り返っています。
今は岡山で、放射能被災者の子どもを引き取って養育する活動にも携わる夫婦が住んでいた一角でした。ある時、その妻である女性は、20歳台の単身時代に双葉郡川内村にやってきたそうです。この村で大工を見て一念発起。3年かけて大工になり、自分が住まう小さな一間の家と五右衛門風呂小屋を立て、棲みついたわけです。やがてこれら小さな2棟の側に、中二階がある木造家屋を造り、いつしか横浜の一級建築士と知り合って結婚。連れて戻ってきた、と聴かされました。
2人の子どもをもうけ、自己完結性の高い生き方の固めてゆき、なごやかに暮らしていたやさきに311。35歳の時でした。宙八夫妻の奨めと、小さな子ともがいたことから、水素爆発の翌日に実家がある岡山郊外目指して避難。その避難行動がとてもあわただしかったことでしょう。
地震で崩れた薪(都市インフラがない寒冷地では命の次に大切なはず)はそのまま雨晒しになっていましたし、窓から屋内を覗くと、新婚時の記念写真が入った額もそのままでした。
当初は、村の人にも世話になったし、村人をおいて行くのはどうかとかた、2度と帰れなくなるとの思いもあってか、随分躊躇し、葛藤したようです。
この女性は、今では原発の恐ろしさを訴える講演などで、夫は自然エネルギーで生活できる建築の普及活動で、ともに忙しくしているとか。
ちなみに、この村を始め、自然豊かな山奥で、自己完結性の高い生き方をした家庭から、引きこもりや鬱病など子どもは出ていない、と聴かされましたが「さもありなん」と思わせられました。また、優人さんではありませんが、子どもたちは放ったらかしにされざるを得ない育てられ方をしていながら、いずれもがとても親孝行だと聴かされました。
この後、川内村の中心部にも足を延ばしました。道路はきれいに整備され、真新しい建造物が随所にみられました。村として最初に帰還宣言したことが国にも高く評価され、モデル地域として「道路も除染する」といわれていたそうです。ショッピングセンター用地の開発が進んでおり、プレハブでしたが大きなビジネスホテルもできていました。すでに7時近くなっていたとはいえ、人っ子一人と出会わなかったのが不気味でした。
国は居住制限解除地区に指定して、そのモデルにしたかったようですが、帰還を拒否している村人の反対で引っ込めたとか。ですから、帰還している村民は村独自の判断に従って自主的に帰還した人ですから、後遺症が出ても、補償対象にはならないはずです(ただし、太平洋戦争で言えば、話は逆で、職業軍人は保証され、銃後の国民は犬死になっています)。そうした人が、村民の4割強とか。子どもが還っていたとすれば、それは村役場関係の子どもだろう、とのことでした。
この放射能被災地を駆け巡り、後にしながら、私は感慨深げにされました。なぜなら、長野での「いのちの祭」が開催された年が1988年であった、と聴かされたからです。1988年と言えば、バブル真っ最中であり、拙著『ビブギオールカラー』がようやく日の目を見た年でしたし、その後アイトワ塾が誕生した年であったからです。
ホワイトカラーやブルーカラーなど、工業社会が生み出した単色人間を卒業し、多彩な人になろうと呼びかけ、それが必然の時代(ポスト消費社会)を迎える、と警鐘を鳴らした年であったからです。翌年、サッチャーは「鉄のサッチャーではなく、緑のサッチャー」を標榜しました。ゴルバチョフは国連で「環境問題は人類共通の敵」と呼びかけ、東西冷戦を収束させています。
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