マクロビアン
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1つの家族がこのような生活空間を手作りした事例を、私は他に知りません。 前例がまったくないか、と言えば当然あります。かつてのわが国では、全国各地に展開していた里山がありましたが、そこでの生活空間がその例でしょう。しかしそれは産業革命を知らず、営々と農業を基盤とする生活に挑みながら高度の文化を培った人々の生活空間です。 それらは、それぞれの地域の気候や風土、あるいはそれらに即した植生などに適応し、見事な生き方を集団で編み出し、築き上げた文化であり、生活空間です。これを高谷好一先生は『世界単位』と呼んでおられる。とはいえ、それは、工業革命を知らなかった時代の話です。 わが国は1950年代以降国を挙げて、ひたすら工業社会化をはかって来ました。その熱が最高潮の最中に、マクロビアンのような生活空間を創出し、確立した事例を私は他に知りません。 かつての世界単位は、重大な課題を抱えていた。たとえば水。水の使い方一つでも厳しい約束ごとがあった。飲料水を汲むところから、オシメを洗うところに至るまで、幾段階かに分けられており、厳格に使い分けをする必要があった。こうした約束ごとを常習的に破る人は村八分にせざるを得なかった。 その伝でいえば、文明は全員を村八分要員にして来たことになる。文明は、飲料水も、水洗便所の水も同じ水を使わせるけれど、かつてはそうはゆかなかった。問題は、文明は、すべての人を村八分要員にして気楽にさせたが、寄ってたかって地球を蝕む競争にいそしませていたようなことになっていたわけです。もちろんその間に、社会福祉政策や健康保険制度などをガタガタにしています。早晩破綻するでしょう。さあ、どうするか。解消策はあるのか。 マクロビアンは、私の目には、食と健康の両面から、画期的な解消策を提案している、と映っています。昨今の食の現実は、量と質の両面から(生活習慣病など)深刻な問題を山積させています。マクロビアンは、そこに大きな風穴を開けるような運動です。 その拠点に(このたびは三度目になりましたが)たたずみながら、近代的な『世界単位』を創出する上で不可欠、と思われる聖地であったことを追認しています。いわば高度な、次代が必要とする文化遺産です。それを消し去っていいものか、と思ったわけです。 残せる日本であってほしい。 わが家に戻ってみると、夏野菜が最盛期を迎えていました。オニユリやヘクソカズラが咲きはじめており、水鉢ではスイレンが盛りでした。雨水甕を覗くとモリアオガエルが迎えてくれました。夕食に、ニンニクを一かけらソテーにしてほしいと所望しました。そしてここも1つの『世界単位』のヒントであった、と自覚し直しています。 |
夏野菜が最盛期 |
オニユリ |
ヘクソカズラ |
スイレン |
モリアオガエル |
モリアオガエル |
モリアオガエル |
ニンニクを一かけら |