「シマッタ」

 

 これは実感の問題だと思っています。たとえばタマネギ。コンビニが近くにできて、財布にお金が十分あるようにすることで、大丈夫と思う人もいるでしょう。私は逆に、自分でタマネギを育て、軒先にぶら下げておく方が、大丈夫と思われます。実感の問題です。

 今週は、この思いから始まったような1週間でした。いつも妻に「性懲りもなく」とたしなめられ、気にしているのが「雨への備えが不十分なこと」です。にもかかわらずまたぞろ「やらかしてしまった」。もちろん「なぜ」と考えました。要は、濡らしてはならないとの自覚を促す「方程式」を心に育んでいなかったわけです。

 雨は雨でも、台風に対しては逆に、「そこまでしなくても」と妻にいつもあきれられるほど神経質です。それは小学生の時に体験し、実感したジエーン台風のおかげであり、今になって思い出しても恐ろしい。その時に、台風を予知すると、自動的に作動する何かを心の中に育んでいます。それが後年、自覚を促す方程式のようなものであった、と気づかされていまです。

 そのおかげだ、と思うのですが、過日「何十年かに1度の大雨」とか「かつて体験したことがない大雨」といわれた雨に襲われた折に、即座に対策の手を打っており、功を奏しています。つまり、翌年の更なる大雨時には事なきを得ています。

 それは、妻を一過性健忘症にした大雨でした。人形工房は床上浸水になり、テラスも水浸しになった時のことです。それがキッカケで、台風時に自覚した方程式を応用し、即刻コンクリプールを作るなど4つの手立てを施しています。

 つまり、例外的な天災には敏感にされるくせに、日常茶飯事の天候などは「恩恵を感じることはあっても、被害の意識が希薄な性格」になっていたのです。

 ですからこの度も、3日続きの好天を活かし、2度3度と一輪車の灰をかき混ぜながら乾し上げて悦に入り、好天に感謝し、「どんなもんだい」とばかりに自然の摂理を実感しています。でも、このところ、自然の摂理自体が狂い始めていることも実感しつつあり、心配しています。
 

タマネギを育て、軒先にぶら下げておく方が、大丈夫 一輪車の灰