平和ボケしたような方向
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この1週間は、平和ボケとは逆の方向に走り出した人間の性を、いやほど見聞きさせられました。 ある雑誌で、ドナルド・キーンと玄順恵(ヒョン・スンヒェ、小田実の妻であった)との対談を読み、アッツ島玉砕での逸話やペリュリュー島での激闘を知っています。その直後にNHK−TVはペリュリュー島の戦いを(アメリカで封印されてきた実録フイルムで)紹介しました。 日本軍は、この戦いを契機にして戦法を(大本営からの命令で)変えています。それまではアッツ島玉砕から始まった「バンザイ突撃」に終始しており、アメリカ軍はペリュリュー島での戦いも3日もあれば終わらせることができて、フィリピン攻略の足場にできる、と見ていたのです。ところが足かけ3か月、70日余の血で血を洗う戦いになります。それは大本営が、アメリカ軍の本土上陸を1日でも遅らせようとする意図のあらわれでした。 この島で、アメリカ軍は初めて130mも炎が飛ぶ火炎放射器を用いています。ナパーム弾も投入しています。アメリカ軍将兵も(戦勝は見えていたのに)、精神を患って自己制御できなくなった仲間を、スコップで殴り殺すようなことをしています。もちろん日本兵は、(仲間連れで脱走しようとしたのでしょうか)仲間を後ろ手に縛り、首をはねたりしています。要は、人間以外の哺乳動物はやらない仲間殺しを、極限の極みのごとき方法で展開しています。まさに、平和ボケとは逆の方向に走り出した人間の性を見る思いがしました。 この間に、フィリピン攻略が始まってしまい、アメリカはこの太平洋戦争で最も悲惨な犠牲を出した戦いの意義を見失ってしまいます。その犠牲は、日本軍将兵の頑張りに誘われ、アメリカ青年の心に悪しき火が付いてしまったが由縁の結果でしょう。 安倍晋三は、こうした日本軍の犠牲の上に今の日本の平和がある、とこの度も挨拶しました。実は、ペリュリュー島での激闘を契機に、日本軍は戦い方を変え、敗戦を日延べさせたわけですが、この戦法がその後の硫黄島や沖縄戦へと続きます。アメリカ軍は焼夷弾を思い付き、本土爆撃で多用するようになり、ついにはピカドンに結びつきます。 安倍晋三は、こうした「尊い」犠牲の上に今の日本の平和がある、と訴えたわけです。それは、敗戦を日延べさせた決断力に欠けた戦法や、次の繁栄のためにはまたぞろ「尊い」犠牲が欠かせない、と言わんばかりの挨拶をしたようなもの、と私は受け止めました。 対して、天皇の挨拶に私は心を惹かれました。ふと、石橋湛山を思い出しています。たしか日中戦争がはじまりそうな頃に、大日本帝国主義を批判し、小日本主義を標榜し、軍備の廃棄を訴えています。その方が私は、日本を良き方向に導いていたに違いない。これから日本が目指すべき姿をすでに創出していたのではないか、とさえ見ています。日本人は優れています。 良き方向に走り出せば、たとえば江戸時代のような、世界に類を見ないような創造性に富んだ庶民の社会も創出します。逆に、明治政府は、そのありようを封印し、逆のイメージを植え付け、大日本帝国主義に走り出し、庶民が蛮勇をふるう国にしてしまいます。それが、ペリュリュー島以降の犠牲(将兵の過半の犠牲=ほとんどが餓死か病死と民間人の犠牲の大部分)に結び付けてしまったわけですが、それは日本人の悪しき頑張りの結果でしょう。残念です。 このたびの激しい雨に悩まされながら、今の韓国や中国とのイザコザを嘆きました。こうしたイザコザをテコにして、日本人の優れた能力を、また悪しき方向に走らせかねない機運が満ち溢れかけている、と嘆きました。これも私たちの自業自得しょうか。 |