幼い思い出
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1944年の(敗色が色濃くなっていた)夏、唐突に(敗色のことなど少しもわかっていない)私の生活環境は一変しました。何でもねだれば(父か、ねえやか、母のいずれかが手を差し伸べてくれて)かなえられていた生活から、泣き叫んでも誰も相手にもしてもらえない生活に変わったわけです。父は不治の病に倒れ、ねえやは田舎に帰り、母は女手ひとつで農業に取り組み始め、一家を、病床の父と3人の子を支えなくてはならなくなったわけです。 今の私はいかにも分別のありそうなことを平気で口にすることがありますし、また分別のある子どもであったような気分になっていましたが、きっと疎開した当初は手に負えない子どもであったことでしょう。そうであったに違いないことを、また思い出さされたのです。 私は、ある夜更けに、母に疎開していた伯母の家から引きずり出され、門柱に荒縄で後ろ手に縛り着けられたことあった、と思い出したのです。それは「ブッポーソ―」がキッカケです。 その門柱と居間の間には距離があり、泣き叫ぼうが聞こえようはずがありません。周りには助けてくれそうな家もありませんし、むしろ泣き叫べば、何か怖いものが聴きつけて、食べに来そうな恐怖感にさえ襲われました。漆黒の夜であったように思います。 途中で一度、姉が様子を見に来てくれました。どのぐらい側にいてくれたのか覚えませんが、鮮明に記憶していることがあります。それは遠くの山から聞こえてきた「ブッポー ソ―」と聞こえた低い声でした。姉が鳥の鳴き声だ、と教えてくれました。 その柱は今もあります。伯母ははるか昔になくなりましたが、そのまま栗の木の柱は健在です。このたび、その柱を始め、その一帯を初めて写真に納めさせてもらいました。この家には「佛母洞」といういわばニックネームがあります。細長くてこじんまりした(隠居用のごとき)瀟洒な屋敷ですが、当時は「佛母洞」に疎開で来ました、と言えば通じました。 伯母は、とても厳格な人でした。母をこれほど縮み上がらせる人が世の中にいるとは私は知りませんでしたから、大変驚きました。山菜の採り方を通して、私はむしろ伯母の意見を尊重しはじめ、それが同時に自然の摂理への目覚めであったと思います。 母はここに疎開し、近くにできたばかりの開発地で農業に携わるまで、土いじりなどしたことがない人でした。でも、事態の急変に刺激されたのでしょうか、一変しています。日のある間は野良仕事です。大八車にサツマイモを積んで、一緒に「供出」と呼ばれた納品に出かけたこともあります。その途中で、今は亡き農家の顔役に呼び止められ、母が積み込んだ選りすぐりのイモと、その農家のヒゲ(のように細い)イモとを、白昼堂々と入れ替えられるのを(母はあきれていましたが)眺めたこともあります。 母は身体を酷使したのでしょう。毎夜のように、背中に大きなオキュウを姉にさせていました。やがてその部分が化膿して、青白い膿がたまりました。しかしその上に、オキュウをさせ続けていました。やがて私は、母の脚を踏んだり、肩をたたいたりするようになっています。 子どもの私にも、きっと母が「ただならぬ事態」に直面している、と実感したのでしょう。それは門扉に縛りつけられ、漆黒の夜におののいてから後のことだったと思います。でもそれは、怖かったからではなかったと思っています。カッコウよく言えば、子どもながらに、これまでの延長線上に明日はない、と実感できたからだと思います。 後年、ブッポーソ―は、鳴き声のブッポーソ―と、姿のブッポーソ―は別物だと知ります。このところ久しく、おそらく60年以上、もとより姿のブッポーソ―は観たことがありませんが、鳴き声のブッポーソ―の声も聴いていませんでした。 それだけに、TVに映し出されたのを観て嬉しかった。かつて妻に、縛り上げれれた一件を話説いてよかった、と思いました。 過日、おそらく50年以上見ていなかったマイマイがメダカの水槽にやってきていました。今年もハンミョウを観ましたし、先々週からミヤマカワトンボがヒラヒラと庭を飛び回っています。ぼつぼつ鳴き声のブッポーソ―にも来てほしい、と思います。 そう願う反面で、恐れていることがあります。わが身の側にも、ミツバチの師匠が酷い目に合われている農薬渦が近づいているのかもしれないからです。わが家の近辺で、このところニホンミツバチの姿が見当たらなくなっています。庭ではニホンミツバチが大好物のタラの花が咲き始めているのに、いまだに羽音さえ聴きません。 |
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佛母洞 |
栗の木の柱は健在 |
石碑 |
タラの花が咲き始めていた |