オオバを収穫した後のことです。雨合羽を傘立てに脱ぎ捨ててあったのですが、ワークルームで干し直しました。そのときに死んだタマムシを見つけており、なぜか奇妙な感動を覚えています。ワークルームは(第三者の目には)雑然と映りそうですが、その雑然が「Life」という単語を思い出させたのです。確か英語では「Life」という一語で、「生命」と「生活」の両方を表わしていたはず、との記憶をたぐったわけです。
タマムシは、先日見かけたハンミョウと同様で、このところ毎年庭で出会うようになりましたが、何年か前までは久しく見かけていなかったのです。もちろんこの庭以外でも見ていません。だからでしょうか、英語では、日本で「再生」という一言で片付けているのに、幾通りもの言葉を用いてそのニュアンスを峻別し、表していたことも思い出しています。
たとえば、recycling や renaissance も再生と訳しすし、revival(生き返ること)やrebirth
(生まれ変わること)も日本語では再生で済ませています。もちろんタマムシやハンミョウは再生されたわけではなく、どこかで生き残っていたのが再進出してきたわけダ、と気付いています。しかし、私にはなぜか当初、この庭で再生したかのように感じられたのです。
こうした想いまで膨らまさせたワークルームですが、この雑然そのものが(予期していなかった死んだタマムシを見つけた時に)なぜか「私は生きている」ということを強烈に実感させたのです。それはどうしてか、と考えました。
この部屋は、使わないときは常にガラス戸か網戸で締め切っているのに、タマムシはどこからどうして入ったのか、とまず不思議でした。ついで、柿渋で仕上げた手提げ篭(は塗装がはげたのでこの部屋に持ち込まれていた)が塗り直しを求めている、と語り掛けて来ました。過日の大雨で濡らした長靴や、汚した軍手が干されていましたが、再び「使ってもらってよいゾ」と語り掛けてきました。
こんなことを感じながらしばし佇んでいましたが、英語では「Life」という一語が「生命」と「生活」の両方を表わしていたことを思い出したのです。そういえば、生きている実感は、つまり「生命」の実感は、同時に「生きている実感を伴った人生」そのものであったわけだ、と思わせられたわえです。
同時に、奇妙ことかもしれませんが、このタマムシも同様に「生きている実感」を、あるいは「生きている実感を伴った人生」を歩んだ末にここで命を絶えさせたのだろうか、との想いに駆られています。もちろん、それはケンにも、ハッピーにも感じてきたことです。それぞれなりに、つまり犬という生き物の一般的な特色だけではなく、「どうしてこの犬は」と驚かされるような個別はもとより、持って生まれた固有の潜在能力に気付いたうえで、あるいはその潜在能力を存分に発揮しながら生き、そして死んでいったのだろうか、と思ったのです。もちろん金太にも感じていることです。
今週は、玉虫の他に、常夜灯が燈った門扉でアマガエルを(これも妻が見つけて教えてくれた)確認。夕食時に、居間の明かりに誘われてアカガエルや初見のガなどの来訪、に恵まれています。
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