スリランカ旅行で(初めて出あった)この人とツインルームを使うことになった。目は優しいが口の重い人で、最初はよそよそしくてぎこちなかった。でも共通の話題が見つかり、糸口が出来た。農業に携わるプロだったから私には山ほど質問があった。
この人は日本の農政に疑問を持っていた。だから、無農薬有機栽培を旨とする米作りに励んでおり、JA(農協)を通さずに各戸販売をしていた。
肥料は、子牛を預かって肥育し、その糞を活かすなどしていたが、話はそれで終わらさず、工夫や苦労のほどを私は次々と聴きだそうとした。
まず、無農薬有機で育った餌を牛は見分ける(多くの人間は、農薬をたっぷり使って見かけを良くした方を好む)だけでなく、喜んでたくさん食べることを知った。餌をたくさん与えるほど、良い肥料がたくさん採れる。しかも(立派に牛が太るから)肥育料もたくさんもらえる。ここまでは話がトントンと進んだ。
日本の農政では「牛の角(怪我などの元)を切り取らせますが」、その指導には従わず、「私は切り取りません」と聞かされて、私はググッとヒザを乗り出した。「牛に、ストレスを与える」「虚脱状態にしかねない」と、事例を添えて聞かされ、得心した。どうやら、こうしたストレスを抱えて育った牛は、性格だけでなく、肉質も悪くなるようだ。
「私は米を個別販売していますが」「一度だけ農薬を使う可能性を認めてくださる人だけを対象にしている」と聞かされ、ググッとヒザをさらに乗り出した。「一度だけ」という言葉をいかに受け止めるかの問題だ。それはお互いの品性が関わる問題だと思う。
供給責任の重さ故の言葉と私は受け止め、帰国後この人を自宅に訪ねたい、と思った。
虫籠窓のあるドッシリとした家で、隣は牛舎だった。さまざまな道具や機械などでいっぱいだったが、いずれ転居する、という。「何故か」と問い詰めてガックリした。
牛を肥育していることが原因だった。臭いが故に近隣の地価が安かった。安いが故に買い求めて住む人が現れた。その増え方に加速度がつき、住宅街になった。そこで、「くさい」「臭い」の合唱が始まり、転居せざるを得なくなった、という。
コメはこの人から、と決めて今日に至っている。幸いなことに、この人は素晴らしい息子だけでなく、その嫁にも恵まれたうえに、孫まで抱いてから他界した。
ちなみに、このスリランカ旅行が縁で、アイトワでは世界NO.1の折り紙付き紅茶を振舞えるようになった。それは旅行後、スリランカが大津波に襲われことに端を発している。津波の印象が生々しいときに妻の人形教室展が開かれたことがキッカケだ。
教室展の仲間は教室展会場に義援金募集箱を置いた。そしてご祝儀まで放り込む人が現れ、予期せぬ大金が集まった。その返礼に来たスリランカの人の1人が、世界NO.1の折り紙付き紅茶を扱っており、分けてもらえることになった。セイロン紅茶のオレンジペコが紅茶の一級品だが、さらにウバ地区のニードウッド農園とくればその王様だ。さらにその上に、森で囲まれたごく限られた農園で、1987年から無農薬有機栽培に取り組んでおり、その茶葉を回してもらえるようになった。このような思い出話にふけりながら、この人の永遠の冥福を祈った。
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