この世の「勝ち組」にも「負け組」にも縁がない生き方を目指している。
世の中は、いつの間にか貧富格差、家庭崩壊、南北問題、あるいは失業問題などを深刻にしてしまい、勝ち組とか負け組といった言葉まで作った。問題は、私の目には勝ち組と負け組が「同じ穴の狢」に見えることだ。つまり、共に「生きる素人」にされていることに気付かぬままに、緩慢なる皆殺し行為に関わらされている間柄、と見える。そこで、わが家では「オルタナティブ」を目指してきた。
「同じ穴」とは何か。それは、工業社会のことだ。機械化やシステム化を押し進め、人間を(専業化・分業化して)分解し、「欲望の解放」に狂奔させる社会のことだ。この穴にはまり込んだら最後、すべての人を生きる基盤をつぶしあう間柄にしてしまう。言葉を変えれば、現有のすべての生き物をやがては皆殺しにしかねないことが自明なのに、抜け出しがたい落とし穴のことだ。
「生きる素人」とは何か。それは、例えて言えば篭の中のカナリヤよりも生きる力のない人のことだ。「同じ穴」から放り出されると、つまりリストラされると、のびのびと羽ばたけず、たちまちにして路頭に迷いかねない人のことだ。麦も育てられず、パンも焼けず、お金という鎖につながれたかのようにしてまたぞろその穴にはまり込み、お金で買うしか仕方がないような心境になっている人のことだ。
かねてから私は「集金システム」という言葉を用いてきた。だから、グローバリゼイションという言葉が流布するようになった時に、膝を打っている。グローバリゼイションとは、留まるところを知らない「集金システム」の敷設活動、と見てとったからだ。
勝ち組は多岐にわたる「集金システム」を思い付き、その敷設活動に成功した人ではないか。対して負け組は、ひたすらそれら「集金システム」に(射幸心に駆られるなどして)とりこにされた人か、あるいは「集金システム」の敷設活動に失敗した人のことだろう。
このいずれにも、つまり勝ち組にも負け組にも私はなりたくなかった。早晩「同じ穴」は破綻する、つまり工業社会は破綻すると見て取り、「オルタナティブ」を目指してきた。
「オルタナティブ」とは何か。それは決して欲望を否定はしない。むしろ欲望を健全に生きる上で不可欠のセンサーのごとくに位置付ける生き方である。言葉を変えれば、「欲望の解放」をつつしみ、「人間の解放」に憧れる生き方である。
「人間の解放」とは何か。それは各人が持って生まれた潜在能力を触発しながら、自己発見することである。つまり、自己実現を目指し合うことである。裏返していえば、工業社会は現有のすべての生き物をやがては皆殺しにしかねないシステムである、と疑う心が誘う先にある。工業社会の破たんを自明の理と見てとる心を養わせる触媒でもる。言うべくして現実化はとても難しい課題ではないか。
それが証拠に、工業社会はいまだに健在で、資源を枯渇させ、自然を破壊したり汚染したり、地球温暖化を進めたり、次々と野生生物を絶滅させたりしながら、生きる基盤を次第に怪しげにしている。
もちろんわが家の生き方は、未だその緒に就いた程度に過ぎないし、模索中である。しかし、もう一度生まれ直すことができるとすれば、この生き方なら生まれ直したい、と思っている。
実は、こうした生き方を模索するわが家で、庭仕事に関わった女子佛教大生の中に、この生活で「辛いことってありますか」との質問をなげ掛けた人がいる。この度、アルバイトに当たってくれる人は、ともにその人の後輩だ。
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