「戦間」


 

 かねてから私は「終戦」という言葉は避けて、「敗戦」を用いるようにしてきた。多くの人は平気で「終戦」を用いているが、私は「終戦」ではなく「敗戦」を使うようにしてきた。それは「日本が始めた侵略戦争の帰結」である、という自覚を強くしたかったからだ。

 それだけに、このたび「敗戦後」であれ「終戦後」であれ「戦後」という言葉を使うのはおかしい、との意見があったことを知って感激した。「戦間」を使うべきダ、との意見だ。

 確かに今は、歴史的に見ても、いつ何時次の戦争が始まるかもしれない。だから「戦間」であるに過ぎない。今の平和は一時の「戦間」に過ぎない、との大切な意見だ。

 日本は今も、国連にさえ、戦後処理を人道的には充分に済ませていない、と決議されるようになっている。その日本で、このところ憲法9条をないがしろにする動きがある。あってはならない動きが垣間見られる。同時に、戦争を美化するような(時代遅れと思われる)言動が加速度的に増えているように見える。言葉を変えれば「ゴリ押し」が進んでいる。

 それだけに、「戦間」という言葉に感激した。

 わが政府も、経済成長に躍起になっている。その挙句、ギャンブルの合法化までが取りざたされている。それは悪しき経済成長策だ。悪しきとは「欲望の解放」に基づいて、ややもすれば手段を選ばぬ経済成長を画策しがちである、という意味だ。その延長線上に戦争がある。戦争は「欲望の解放」の典型ではないか。それを画策するような動きがチラツキ始めている。危険ダ。

 かつてわが国は、その危険性を増幅させ、植民地政策に走る最後の帝国になろうとして挫折した。つまり、「敗戦」に結び付けることが自明であった侵略戦争に国民を走らせ、辛酸を舐めさせた。そして昨今、最高裁判所は、戦争の辛酸を国民は等しく受容すべき立場である、との判断を下している。不気味ダ。

 こうした危惧の念を抱きながら、この度「戦間」という言葉を聞いた。