首をひねらされています

 

 途中から見た番組だが、庭石をテーマにしていた(ようだ)。「これも庭石がらみ」と称して、庭石が見当たらない庭が紹介された。それは松下幸之助が生前に造らせ、このんだ庭であった。どうやら既存の有名な庭園を(手に入れて)造り直させたようだ。

 「銘木や名石を用いずに、との指示があった」とのナレ-ションに惹かれ、最後まで見た。この指示を「庭師はどのように理解し」、その「成果(理解が形となった庭)をいかに松下幸之助が評価したか」に興味を引かれた。

 余談だが、このときに私は、拙著(『「想い」を売る会社』)で引用したケネディー大統領とその助言者であったアーサーシュレジンガーJR.とのやり取りを思い出している。助言者は、20世紀人であるケネディーに「19世紀人」の考え方を引きずるのか、それとも「21世紀人」を目指すのか、と迫るような助言をしている。

 映し出された庭は、ある種の究極でもあった。その典型は、杉林(銘木ではない)に敷き詰められた白砂(名石ではない)の組み合わせである。要は、片時も手入れ(年月を経るにしたがって手入れの用が増える)を怠れない庭であった。

 自然は片時もじっとしていなに。2つと同じものを自然は生み出さない。しかし人間は、なぜか不自然に惹かれ、憧れてしまうところがある。工業時代はその究極を求めてきた。それは、自然界にはあり得ない真の直線や平面などを多用する寸分たがわない複製品を指向し、多くの人を引き付けてきたことでもわかる。それは自然の摂理に反する贅沢でもあり、その贅沢が普遍化し、今や地球を蝕み、人間の精神まで蝕むまでに進んでしまった、と言ってよいだろう。

 それは,人間は死を自覚し、死をおののくようになったからかもしれない。

 同じことを私たちは繰り返しているのだなア、と人間であることが愛おしく思えた。江戸時代にも、ありふれた自然物を用いながら不自然の極みを追求する贅沢があった。江戸時代の豪商は贅沢禁止令の裏をかこうとするかのような競い合いをしている。たとえば、絹の禁止令に対抗して、木綿に見せた絹織物をつくらせて贅を競いあっている

 何故か急に松下幸之助が身近に感じられた。


 

思った通りにピタッと収まった

踏み石もどきを作り

自然が次第にきれいにする補修を思い付いた