2泊3日の旅
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6時起床。曇天の6時50分、モーツワルトの交響曲(ハフナー)と妻の「気をつけて」から始まった旅は、網田さんの軽4輪で走りまくる旅になった。 |
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秋の盛りを満喫 |
はや終盤の地に至り |
霧でかすむ美しい光景に喜んだ |
新聞記事で「下栗の里」に惹かれたが |
建屋は近代的に画一化されて |
ベルリンの夜景 |
急斜面にも植林 |
雨と霧で視界が閉ざされ |
次の目的地は、満蒙開拓平和祈念館。到着は4時。閉館時間は4時半。2〜3の資料をもらい、開館は9時半と聞いたうえで、宿泊地・昼神温泉を目指す。 ここが昼神か、と目をキョロ着かせると朝一の案内。宿では、すぐに(40年ばかりの歴史の)湯につかり、温泉食を生ビールと麦焼酎の湯割りで終え、早めに寝た。そして、3時に目覚め、資料を抱えて大風呂に向かい、脱衣所で下調べ。体が冷えた5時に湯につかり、7時半まで2度寝。 朝市へは、ピアノ協奏曲20番を聴きながら向かった。市は終盤だった。色の悪い寒天などを横目で見ながら、市の端に至ると、自称90歳の女性が残り少ないイモを商っていた。網田さんはコイモを、私はコイモと「アンデスの紅いも」と聞いたジャガイモを買い求めた。これがキッカケになった。フジ色の悪い「寒天を買ってもよい」と妻に電話を入れた。そのあと、フジバカマの苗と白いホトトギスの苗、通りを挟んだ反対の市にも足を延ばし、ブルーベリーパイ、煮しめて縮んだ卵など、「自動車だから」と気楽に買い求めた。 9時前に満蒙開拓平和祈念館にたどり着く。まず、夜分に異資料で調べたお隣の長岳寺を訪ねる。前住職は故人だが、中国残留孤児の招聘と帰還を現実化させた人であった。敗戦の年の5月に、副住職だったが、妻と2人の娘を連れた最後の移民として渡満。酷い目に遭った。わが娘の不幸がキッカケとなり、動いたことがやがて運動になった。 現住職人亮純さんと面談できた。中国は「開拓ではなく、略奪と搾取だった」という。開拓とは荒野を拓くこと。日本は、開かれた土地を奪い、土地所有者を追い出したり使役したりしたわけだ。日本は、略奪ではない、という。すべてを残して引き揚げた。ここでも不毛の交渉があったようだ。ともに公平中立ではなく、自己の利害を優先する。えせ国益だ。 帰り着いた人は、多様な感想を述べるようだ。「楽しかった。希望にあふれていた」と懐かしむ人。これは初期に出かけた人に多い。「現地の人にとても世話になって、無事に還れた」と懐かしむ人もいる。現地の人を分け隔てせずに付き合った日本人も大勢いたわけだ。 長野から32,992人が送出された。全国(321,882人)で1、帰国者16,949人。未帰還者16,043人、うち14,940人が死亡。他は残留者。下高井地区の例では、未帰還者の率は66.8%。 もし仮に、ここに妻のような人が混じっていたとしたら、と想像した。彼女は分け隔てなど思いつかない人と見ているが、きっと集団自決していたに違いない、と思った。 満蒙開拓平和祈念館では、事務局長と面談できた。その館内案内の様子を垣間見て、その中立的な説明に惹かれ、望んだものだ。 わが国は、ポツダム宣言を受諾するについて、喧々諤々したのだろう。8月14日に、「居留民は出来る限り定着の方針を執る」と在外公館に打電している。棄民政策。 8月26日には、大本営参謀「関東軍方面停戦状況に関する実施報告」では、「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」と、決めている。 三沢亜紀事務局長は、広島の出身で、高校時代の教師に感謝している。原爆投下を、被害者意識だけで歴史的事実を中立公正に教えようだ。真の愛国者だったのだろう。 昼食は道中のそば屋で採った。信州中馬そば街道の一軒だ。 かくして妻籠を経て、次の目的地、奈良井宿に向かった。馬籠や妻籠は、3度も訪れているが、妻は奈良井宿を勧めた。何故か、と思いながら、1日延長した。 延長したのはもう1つ、別の理由もあった。阿部ファミリーと連絡が取れ、帰路、恵那に立ち寄ることになったからだ。阿部ファミリーには出発前に、あるいは出立後、中央自動車道で恵那ICまで2キロとの表示を見た時にも電話を入れた。しかし、留守だった。また、当初から、気が向けば1日延長と網田さんと語らっていたからだ。 何故妻は奈良井宿を勧めたのか、と思いながら車を走らせた。 |
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満蒙開拓平和祈念館 |
市は終盤だった |
ジャガイモを買い求めた |
フジバカマの苗と白いホトトギスの苗 |
反対の市にも足を延ばし |
動いたことがやがて運動になった |
妻籠 |
妻籠 |
妻籠 |
妻籠 |
妻籠 |
妻籠 |
妻籠 |
妻籠 |