2泊3日の旅

 

 6時起床。曇天の6時50分、モーツワルトの交響曲(ハフナー)と妻の「気をつけて」から始まった旅は、網田さんの軽4輪で走りまくる旅になった。

 一足早く秋の盛りを満喫したかと思う間もなく、はや終盤の地に至り霧でかすむ美しい光景に喜んだ

 まず、長野県飯田市「下栗の里」の眺望を目指したが、あいにく雨が降り出した。「天空の里」ビューポイントに至る駐車場に12時過ぎに到着。観光案内でもらったパンフレットを開きながら、大もりのざるそばで腹ごしらえ。「アレレ」と思った。

 新聞記事で「下栗の里」に惹かれたが、その建屋は近代的に画一化されており、周辺の路は舗装されている、と見たのだから。

 ドイツ帰りの知友から、景観の保護をとても大事にしているドイツの事情を聴かされていただけに、ガッカリしました。ベルリンの夜景は、今も25年前の姿を保っている。

 ビューポイントまで15分との道のりは、狭くて、ぬかるみ、しかも起伏があり、幾度も立ち止まって息を整えた。整えながら、「75度もあろうか」と思われる急斜面にも植林されており、当時を振り返った。貧しい時代だった。当然、枝打ちなど「その後の手入れをするつもりで」苗木を「植えたに違いない」。でも、世の中が豊かになり、目先の採算を考えるようになり、「割に合わぬ」とばかりにサボッてきたのだろう。貧しい時代は、孫の幸せをおもんばかり、枝打ちなどにも励んだものだ

 ビューポイントは、雨と霧で視界が閉ざされ、幸か不幸か「天空の里」を展望できなかった。古くは平家の落人、近くとも武田の残党と見られる人たちに想いを馳せ、瞼に当時の姿をしのんだ。この時に、カメラの充電器を忘れて来たことを思い出す。

 


秋の盛りを満喫

はや終盤の地に至り

霧でかすむ美しい光景に喜んだ

新聞記事で「下栗の里」に惹かれたが

建屋は近代的に画一化されて

ベルリンの夜景

急斜面にも植林

雨と霧で視界が閉ざされ
 次の目的地は、満蒙開拓平和祈念館。到着は4時。閉館時間は4時半。2〜3の資料をもらい、開館は9時半と聞いたうえで、宿泊地・昼神温泉を目指す。

 ここが昼神か、と目をキョロ着かせると朝一の案内。宿では、すぐに(40年ばかりの歴史の)湯につかり、温泉食を生ビールと麦焼酎の湯割りで終え、早めに寝た。そして、3時に目覚め、資料を抱えて大風呂に向かい、脱衣所で下調べ。体が冷えた5時に湯につかり、7時半まで2度寝。

 朝市へは、ピアノ協奏曲20番を聴きながら向かった。市は終盤だった。色の悪い寒天などを横目で見ながら、市の端に至ると、自称90歳の女性が残り少ないイモを商っていた。網田さんはコイモを、私はコイモと「アンデスの紅いも」と聞いたジャガイモを買い求めた。これがキッカケになった。フジ色の悪い「寒天を買ってもよい」と妻に電話を入れた。そのあと、フジバカマの苗と白いホトトギスの苗、通りを挟んだ反対の市にも足を延ばし、ブルーベリーパイ、煮しめて縮んだ卵など、「自動車だから」と気楽に買い求めた。

 9時前に満蒙開拓平和祈念館にたどり着く。まず、夜分に異資料で調べたお隣の長岳寺を訪ねる。前住職は故人だが、中国残留孤児の招聘と帰還を現実化させた人であった。敗戦の年の5月に、副住職だったが、妻と2人の娘を連れた最後の移民として渡満。酷い目に遭った。わが娘の不幸がキッカケとなり、動いたことがやがて運動になった

 現住職人亮純さんと面談できた。中国は「開拓ではなく、略奪と搾取だった」という。開拓とは荒野を拓くこと。日本は、開かれた土地を奪い、土地所有者を追い出したり使役したりしたわけだ。日本は、略奪ではない、という。すべてを残して引き揚げた。ここでも不毛の交渉があったようだ。ともに公平中立ではなく、自己の利害を優先する。えせ国益だ。

 帰り着いた人は、多様な感想を述べるようだ。「楽しかった。希望にあふれていた」と懐かしむ人。これは初期に出かけた人に多い。「現地の人にとても世話になって、無事に還れた」と懐かしむ人もいる。現地の人を分け隔てせずに付き合った日本人も大勢いたわけだ。

 長野から32,992人が送出された。全国(321,882人)で1、帰国者16,949人。未帰還者16,043人、うち14,940人が死亡。他は残留者。下高井地区の例では、未帰還者の率は66.8%。

 もし仮に、ここに妻のような人が混じっていたとしたら、と想像した。彼女は分け隔てなど思いつかない人と見ているが、きっと集団自決していたに違いない、と思った。

 満蒙開拓平和祈念館では、事務局長と面談できた。その館内案内の様子を垣間見て、その中立的な説明に惹かれ、望んだものだ。

 わが国は、ポツダム宣言を受諾するについて、喧々諤々したのだろう。8月14日に、「居留民は出来る限り定着の方針を執る」と在外公館に打電している。棄民政策。

 8月26日には、大本営参謀「関東軍方面停戦状況に関する実施報告」では、「満鮮ニ土着スル者ハ日本国籍ヲ離ルルモ支障ナキモノトス」と、決めている。

 三沢亜紀事務局長は、広島の出身で、高校時代の教師に感謝している。原爆投下を、被害者意識だけで歴史的事実を中立公正に教えようだ。真の愛国者だったのだろう。

 昼食は道中のそば屋で採った。信州中馬そば街道の一軒だ。

 かくして妻籠を経て、次の目的地、奈良井宿に向かった。馬籠や妻籠は、3度も訪れているが、妻は奈良井宿を勧めた。何故か、と思いながら、1日延長した。

 延長したのはもう1つ、別の理由もあった。阿部ファミリーと連絡が取れ、帰路、恵那に立ち寄ることになったからだ。阿部ファミリーには出発前に、あるいは出立後、中央自動車道で恵那ICまで2キロとの表示を見た時にも電話を入れた。しかし、留守だった。また、当初から、気が向けば1日延長と網田さんと語らっていたからだ。

 何故妻は奈良井宿を勧めたのか、と思いながら車を走らせた。
 

満蒙開拓平和祈念館

市は終盤だった

ジャガイモを買い求めた

フジバカマの苗と白いホトトギスの苗

反対の市にも足を延ばし

動いたことがやがて運動になった

妻籠

妻籠

妻籠

妻籠

妻籠

妻籠

妻籠

妻籠