太陽温水器から大量の水が漏れ出していたことを、喫茶店が閉まった直後に気付いた。その前に、水音を聞いていたが、妻がトイレを用いたものと思い、その場を立ち去っていた。妻によれば、どうやら朝方から漏れていたようだ。「雨かナ」と思ったという。
太陽温水器は揚水ボタンをオフにして切り、温水器内の水を抜いて空にすれば、水漏れは止まるハズだ。だが、その操作に妻は手間取り、揚水ボタンを入れたり切ったりしていた。私の期待は、次のような処置だ。揚水ボタンをオフにした。そして温水器を空にした。しかし「水漏れが止まらない」。故障か、何らかの異常発生と即座に判断し、手を打ってほしかった。
だから、「スイッチはひねくり回さないと切れないのか」とまず一喝した。
その後、朝方に水音を聞いていながら、「雨かナ」と心配し、「雨でなくてよかった」と思っただけに留め(水音の報告を忘れ)ていた、と聴かされており、腹立たしかった。
翌朝、中尾さんに来てもらってから分かったことだが、配水管の老化によるひび割れだけでなく、電動コックの故障が重なっていた。そうとは分からないままに、ともかく水道の元栓を閉めなければならない、と私は考えている。
そこで、「元栓を閉めるが、風呂を焚く準備などは済んでいるのか」と妻に質した。湯船に水を張り終え、湯をぬるめる水を汲み置くなど、即座に手を打たなければいけない。そうと気づいて手を打つか、次善の策、「10分ほど待ってください」などとの返答を期待した。
ところが、「風呂焚きは、孝之さんが引き受けてくれているのでしょう」と来た。当然、私は切れた。切れて「もう風呂焚きはやめた」と子どもじみたことを言ってしまった。
風呂を焚く肩代わりは引き受けたが、水張りは妻がしていた。そもそも、家事全般の気配りは、例えば断水への常日頃の備えなどは、主婦の役割ではないか。第一、私が死んだ後は「どうするのだ。心配させるな」と怒鳴りたい。だが、控えた。妻のことだから、きっと「私の方が先に死ぬことだってあります」との脱線に知恵を絞り始めるに違いない。
そこで、元栓がある門扉脇まで急ぐことにした。走れない身だ。オタオタと走り、操作を終えるまでにかなりの時間を要した。その間に、次のようなことを考えている。国家なり、地方自治体なりが「給水できない」と言い出せば、「何とかしろ」と妻に責めよるつもりなど毛頭ない。その場合の備えは私の分担だ。だから、渇水にも気を配り、妻にバケツを総動員させるなど、最低限の備えは常にしてきたではないか。
やがて風呂を焚く時刻になった。私が立ち上がろうとすると、妻は「私が焚きます」と言ってきかなかった。
かくして、「今ならまだぬるめです」と、湯に楽に浸かることができて、ジワジワと熱くなるのを楽しめるタイミングであることを告げられた。
風呂場に入った時に、私が門扉脇までオタオタと急いでいた間の妻の行動を知った。風呂場にタライは持ち込み、水を張っていた。
湯船につかりながら考えた。なぜか、2泊3日の旅から戻り、囲炉裏場にある無煙炭化器を見た時の驚きを思い出した。灰を雨で濡らさないように妻がほどこした手はずのことだ。雨を心配した私は、よろしくたのむ、と言い残して出かけた。その時はまだ無煙炭化器には燠が残っており、私流の覆いの被せ方では危なかった。
一度見てしまえばなんてことはないが、妻は私には思いつかない覆い方をしていた。一輪車の金属の荷台も活かし、燠の熱さでは発火しない覆い方であり、もはや私には思いつかない方式であった。「ああした覆いを思いつく人だ。尊重しなければいけない」と思った。
翌朝、中尾さんに来てもらえる前に、喫茶店が開く時刻になった。早速トイレを使いたい人が出て当然だ。妻は、断水対策をしていなかった。しかし私は文句を言わず、坂道をオタオタ上り下りして元栓を開けたり閉めたりして裏方に徹した。
やがて中尾さんが到着。原因を突き止め、部品などの都合もあり、午後3時に修繕を終えている。私は、中尾さんが応急処置を施している間に、居宅に給水する配管のコックがあって当然と考え、オタオタ動きまわって見つけている。私はこのコックの存在に気付いておくべきであった、と反省。観光シーズンが終わってから、妻にその存在などを説明するつもりだ。
中尾さんを見送ってから、私は妻が濡らさずに守った灰に手を出している。丁寧に袋詰めにして、冨美男さんにさし上げることにした。
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