何とも美しい朝焼けで始まり、月夜で終わる1日だった。
朝食時のTVは、世界中で繰り広げられているイルミネーションを報じたが、妻が突如箸を止めた。この冬最初のわが家のイルミネーションだった。溶けた夜露が木の葉から滴り落ちる折に、朝日を受けてキラキラと、赤や青など、虹色に輝く偶然のイルミネーションだ。
もちろん辛いことも生じていた。今週は、年末年始の挨拶を遠慮する知らせも続いたが、とりわけ前日届いていた知らせ・高校時代の仲間の死をしり、惜やまれた。
19歳を思い出した。合否発表前の私(受験浪人)をハイキングに誘った仲間の1人だ。行き先は小野郷(右京区)の(杉の下枝落としをする山男の)山小屋だったが、途中で雪が降り始めた。
昼食は、囲炉裏の自在カギに吊るされた1つのゴッタ煮の鉄鍋に、そばを流れるせせらぎの氷を割って捕った川魚も入れた。それを「生臭い」と私が言うと、全員で雪山ハイキングとなり、雪中行軍のごとく、雪に埋まった熊笹をかき分けて進んだ。雪をかぶり始めた山は美しい。衣装は山仕事用を借りたが、足元は出かけた時のまま、私はズック。下駄の友だちもいた。
山小屋にヘトヘトになってたどり着き、ウィスキーをラッパ飲み。喉を癒した。何ともうまかった。「生臭かった鍋」もガツガツ食べた。この時に、初めて私は「相対的」という言葉を実感している。冷たいとか熱い、美味しいとかまずい、あるいはきれいとか汚いとは何か、と考えている。そして「もっともっと」と限りなくのめり込みそうなことを警戒し始めている。
今年は、慈受院のご門跡はじめ行動を共によくした同い年を次々となくした。
「さあヤルゾ」と自分を奮い立たせ、腰を上げ、万歩計を装着。まず妻が玄関に避難させたホンコンカボックなどを日光浴させたくて運び出した。その上でワークルームに行き、工具と週初めにHCで買い求めた部品などを携え、温室に向かった。2つの工作に取り組むためだ。
まずスチールロッカーに、ボルトとナットで固定できる幾つかのフックを取り付けた。これまでは磁石性のフックにカメラをぶら下げ、時にはその上に防寒具を掛けていた。それが「危険ダ」と妻にしばしば注意されていた。
次いで、イノシッシの固定だった。イノシッシの入り口の1つ(の支柱)と温室を既製の部品を生かして固定することにしていた。問題は、既製の部品で具合の良いものがあるか否かだ。そこで、最悪の場合は「ペンチで曲げて」などと考え、3つ仕入れてあった。
「なんと」その1つがピッタリ合った。2つのネジ穴の位置までピッタリと分かった時の嬉しかったこと、この朝2つ目の偶然だった。
なぜか意気揚々とした気分になり、冷えた体を温めるために、温室仕事に手を出した。チューリップの鉢を5つこしらえた。こしらえながら「あの頃は」と19歳を懐かしんだ。雪山を素足に下駄で1時間余も行軍できた頃のことを、再び思い出したわけだ。
この後、この冬最初の落ち葉のマルチングを、フキ畑(夏以降はミョウガ畑)で試みた。
妻が簡易ガレージにかくまっていたホンコンカボックを温室に運び込んだわけだ。その1つはとても重くて、来春は鉢を替えるなど「軽くしなければ」と考えている。
身体がほてったところで、水槽に手を付けた。キンギョを戻した水槽は、水がかなり汚れ始めており、なぜかガラスが水滴で曇っていた。キンギョを戻していない方は、水は澄んだままだし、水滴もついていない。そこで、澄んだ方に、水草の鉢をこしらえて沈め、キンギョを戻しはじめた。
午後から冨美男さんに来てもらえ、ニセアカシヤのヒコバエを移植してもらった。その間に私は、スライドバシゴを持ち出し、囲炉裏場で最後の1本に手を付けた。緑の天蓋を構成する主要樹であり、囲炉裏場の南側(新果樹園の北の端)に生えているクヌギの剪定だ。枝を切り落としただけだけど、無事に終えた時に、冨美男さんの移植作業も終わっていた。
既に4時を過ぎ、日はかげっていたが、スライドバシゴを出していたこともあり、「ハクモクレンに片付けますか」と冨美男さんに呼び掛けた。この太い枝落としはテクニックを要したが、冨美男さんにかって出てもらえた。終わるころには、月の光が頼りになった。
|