心が揺れた学生時代
|
|
アイトワ塾の前回のテキストはある論文だった。そこで学んだことの1つに、京都の観光に関する「そうであったのか」と叫びたくなるような事実があった。それは、旅行雑誌『旅』が京都特集を初めて組んだのは1961年のことである、との記述である。私には「思い当たるフシ」である、と言い直してもよい事実であった。 1961年と言えば、わが家の一帯は田畑が広がっており、今はその多くの宅地化されており、100軒以上の住宅になっているが、当時は光寺や落柿舎を含めて16軒の隠里であった。田毎の月が楽しめた。そのころの京都は「毅然」としているように私には見えた。その是非は別として、京都の一流観光施設は「いちげんサン、お断り」で知られていた。 だが今では、偽りのセールストークで観光者を呼び込む光景が現れている。要は、観光客を誘引することに力を注ぐのではなく、訪れる観光客を待ち受けるための浸食が目に余る。 1961年と言えば、私が社会人になる1年前のことであり、とても印象深い1年であった。人生の岐路に立たされていた、と言い直せる。就職先は、内定していた東京から大阪に変え(るという、とても不義理なことをし)ている。それは1つの心が下させたはずの選択をひるがえし、もう1つの心に切り換えた結果である。京都の自宅から通勤することにした。 今から思えば、その4年前のスプートニクの夜(1957年秋)に、直観に誘われたかのように感じた1つの生き方があったが、その生き方に踏み出し直した、といってよい。決心のし直しと言えばカッコウがよすぎるが、結果としてそうなっている。社会人2年目(1963年)に、終の棲家を造り、その後50年来、仕事場を2度3度と変えながら、住み続けている。おかげで、両親を自分の布団で永眠させている。 1961年は、日本人が南アで名誉白人として扱われるようになった年であり、堀江謙一の太平洋一人ぼっちが騒がれた年でもあった。 1月、JFケネヂィーが大統領に就任。その就任演説のレコードを買い求め、幾度となく聴き返している。何故か「世界が変わる」と、急きたてられたかのような気分にされた。 4月、人類はヴォストーク1号(有人の人工衛星)の打ち上げに成功。ガガーリンは「地球は青かった」と伝えてきたが、「神は何処にもいなかった」とも伝えた。 6月、日航が初ジェット機DC8でポーラールートを飛ぶようになる。 8月、ベルリンの壁の構築が始まり、シベリヤ墓参が許可される。 映画「ウエストサイドストーリー」がヒットしていた。当時、私は大の洋画ファンであったのに、何故か見る気がしていない。観てなるものか、と心に決めている。 マイカー族が増え、新車登録23万台。団地が次々と現れ、新婚女性の間でショートパンツが流行。その夫たちの心を半そでシャツのキャンペーンがとらまえ始めている。そして、トリスを飲んでハワイへ行こう、と騒いでいた。コーラの輸入やインスタントコーヒーの輸入が自由化し、未来をとても明るく見え始めていた。スキー客が100万人を突破した年でもあった。 私は何故か、ついにスキーにはなじんでいない。 京都では、北野線のチンチン電車を廃止した。わが家の近所では、小倉山の裾に小さくて怪しげな社が置かれた。それが今では、株式会社が運営する御髪神社になっている。京都にも、路面電車を復活させては、との動きがある。 翌62年の冬、週末毎に、仲間は大型バスを会社の横に連ねさせ、スキーに出かけていた。私はその横をすり抜けて京都を目指しており、帰宅して野良仕事に立ち向かっている。要は、変わりものであったわけだ。 やがて、日本と西ドイツは、奇跡の復興とうたわれるようになる。西ドイツは、戦争の加害を個人単位の保証で償いながら、その爪跡を記念施設として残す道を歩む。日本は逆に、国単位で償いながら、加害の跡を忘却しがちになっている。 その後、ドイツは東西合併し、今や5人に1人が外国人とその子孫が占める国になっており、EUの盟主のごとくになり、その女性首相は、EUの女王のごとくにあてにされている。対して日本は、在留する外国人総数は200万人ほどにすぎない。そして総理は、国民が近隣国に対して険悪な感情を抱きかねないような振る舞いをしがちになっている。 この度、心が揺れた1961年を、つまり社会人になる前年を振り返り、おおいに判断に苦慮した思い出がよみがえった。そして、私のシフトの切り替えは幸運であったと思った。 |
|
|
|