共鳴の喜び
 

 2時間ほどご一緒出来た。庭の見学も含め、わが家の生き方を観てもらい、ご意見を賜りたかった。そこでお迎えすることになり、名刺代わりに拙著『庭宇宙パートU』を用いたが、その後小一時間ほどの会話で、この一書では足らないことに気付かされている。

 「世の中には、後楽園や偕楽園はありますが」と話しかけた時のことだ。聞くところによると、これは佛さまの考えであり、民より後で、せいぜい民と一緒に「楽しむべし」との考え方に基づいている、という。もしそれが事実なら、この考え方に私は必ずしも賛成ではない。それは「楽しみ」の捉え方に問題がある、と思う。「むしろ」と、私は思うところを述べ始めた。

 「民より後で、あるいは民と一緒に共感すべき『楽しみ』よりも、先行させるべき『楽しみ』があってもいいのではないか」と言ったようなことを伝えた。そこで、『庭宇宙パートT』を取り出すことになった。

 この一書に盛り込んだ最初のエッセーが「先楽園」であったからだ。この一文は、大本山大覚寺の華道・嵯峨御流の機関誌『嵯峨』に、2001年1月号に寄稿させてもらったエッセーである。

 この一文で、私は優先すべきもう1つの楽しみ「Alternative」が必要とされる時代になっている、ということを提案したかった。このような楽しみがある、とばかりに先に楽しんで見せ、ならば一緒にと楽しみの環でき、次第に広がることを夢見ていた。

 仏陀は、その実践者ではなかったか。なのに、なぜ世の中には「先楽園」がなくて、後楽園や偕楽園が造られてきたのか。それは、後世の人たちの「楽しみ」の認識が、優先すべきもう1つの楽しみ「Alternative」ではなかったからではないか、と思うようになっていた。

 そうした想いを語りはじめたところ、この重鎮は、「だから『失楽園』になるのでしょう』と発言された。無上の共鳴の喜びを噛みしめさせていただいた。

 他方、異なるフィールドでの共鳴は、政経分野だった。そこで危惧した一面が、その後、如実な形になった。イスラム国に拉致されていた2人の日本人が、脅迫の材料に使われた。安倍総理は「国際社会と連携をとって」と言うが、その国際社会とは何か。人口比率で言えば4分の1にも満たない人々が棲んでいる国々ではないか、国家の数で言えば1割りにも満たない国々を指しているのではないか。それで、大丈夫か。