やがて認知症大国
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2025年。私が現役で庭仕事を続けていた2025年に、わが国は認知症大国になっている。たしかその数700万人、65歳以上の人の5人に一人とか、と報道していた。 そういわれれば、とわが身を振り返った。たしか先週、いずれ認知症の多くは「生活習慣病」であったと分かるに違いない、と考えている。そして今週、ソ連時代のコーカサスを思い出さされている。かつて、長寿国として紹介されていた地域のありようだ。いわゆる屋外で力仕事にピンピンとたずさわる日々を送り、起き出してこない朝があれば、それは眠っている間に絶命していたことに気付かせる時、との生き方であったが、その印象を補強する記載であった。 そのころになると、政府が言っているような甘い話では済まなくなっている、と思う。政府だけでなく、多くの人が願うようにはならない時代になっている、と私は思っている。つまり、これまでのような「願望の未来」ではなく、避けて通れない「必然の未来」を迎えている、と睨んでいる。正確に言えば、この「願望」が加速させた「必然の未来」だ。 そうした時代に、本当の幸せや豊かさが待っている、とも見ている。いや、そうした時に味わえる幸せや豊かさが本物であって、今の幸せや豊かさは「うたかたのそれら」であったにすぎない、と気付かされ、成人する喜びも実感できるように見ている。問題は、心構えと備え次第だ。その時に、出来れば役立てる人になりたい。 問題は、認知症などにならないことだ。私の場合はもう1つ、心臓の問題がある。いやもう1つ、年甲斐もなく「昔取った杵柄」とばかりにとりくんでしまい、失敗することが多い心配がある。そのようなことを考えながら、まずは妻に介護の負担をかけず、出来れば他の多くの人の役にも立ちたい、と考えている。自分勝手に「昔取った杵柄」とばかりに取り組む 癖を改めたい、と思わせられている。 実は、この想いを補強したのは週末だ。網田さんに連れてもらってケイタイをスマホに切り替えに出かけたが、その店の中で生じた。その意味でも人生のエポックになるかもしれない。 網田さんに「私の手は」と、両の手を広げて見せ「黄色くありませんか」と尋ねた。手の甲も黄色かった。どう見ても黄色く見えた。商社時代の、肝臓をやられた時以上に黄色い、あの時は掌だけだったが、今は甲も黄色い。そして、脈を診て「やはり」と思った。水車小屋になっていた。つまり、コトコトコットンであり、3拍もしないうちに不整脈が出ていた。とにかく寒かった。 でも、おかげさんでスマホを持つ身になった。この活かし方を、私なりに考えてみよう、と思う。ワープロに固執していたら、この週記は出来ていなかった。とっくに終わっていた。 |