選択を改めて迫られたような心境
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植木等のスーダラ節ではないが「分かっちゃいるけどヤメラレナイ」の問題だ、とまず吹き出した。 同時に、元日に迎えた阿部ファミリーの「ツキ」と「サン」の話を思い出した。2頭の犬を飼っていたが、ハッピーと生き写しの息子「サン」を生み育てた母犬、いまは亡き「ツキ」の話だ。 とても賢い犬だった。それだけに滑稽なこともした。かゆい尻をかくために、草が生えた坂地に尻を付け、前足をストックよろしく尻スキーを繰り返した。その「ツキ」が加齢で弱って来たと見た頃に、冬到来が重なった。そこで、屋内に入れて冬越しさせようとした、と聞く。当初は「入れてやってよかった」と、思ったという。 それが「イケナカッタ」と、家族4人は認識していた。賢い「ツキ」がグータラのようになったのだろう。そのグータラが明らかに「ツキ」の命を縮めさせたに違いない。この話を聞きながら、私は我が身を振り返っている。 最初のトルコ旅行で実感した「ささやかな問題」である。今では最早かなわない旅行・東トルコ周遊の途中で気付かされたことだ。この旅では、シリアとの国境近くを緊張しながら通りもしたが、その途中で、荒涼とした大地の一角に設けられた素朴な温泉に立ち寄っている。夕暮れ時だった。そこでの思い出。 「なんだ、この温泉は」と奇異に思った時に(それほど雑然とした粗末な温泉だった)入るのをあきらめかけている。あの時にあきらめておれば、とまず思っている。 意を決して入ることにしたが、それがよかった。脱衣場がなく、ツルツルの湿ったコンクリートの床の上で衣服を脱がなければならなかったからだ。その時になって初めて、片足で立って靴下を脱ぎづらくなっていたわが身に気付かされている。 プールのような湯船に浸かり、オットットットと片足踊りをしながら靴下をはき、無事にバスの人となった。冷たいバスの窓ガラスに額を当てて目をつむり、ホッとしながら考えた。「危なかったなあ」と思い出し、心を戒めている。 こうした時は、いろいろな考え方ができるのだろうが、わが身には単純な2者択一を迫ることに、私はしている。そして最悪の場合を想定し、最悪にならないように努める。それが気を楽にし、楽観主義のさせてくれるように思う。 このオットットット事件、つまり片足踊りも、ささやかな事例だが、私にとってはとても大事な機会になっている。弱った体に合わせるか、弱らないように努めるか、の選択だ。私には前者が生活習慣病の典型かのように感じられた。 実はこの時に、学生時代に学んだエルゴ(人間工学)デザインを思い出している。そして、靴下や靴を脱ぎはきするときに、椅子に掛けたり手すりにたよったりしていたことに気付かされている。 そういえば、温泉地などでは椅子や手すりなどが具合よく用意されるようになっていた。わが家でも、手すりまで用意しており、それに甘えていた。 このオットットット事件は、知らぬ間に弱っていたわが身を「対象化」して眺める機機会になったわけで、とても感謝した。加齢を自覚しており「これが人生の分かれ目」とさえ思っており、わが身に二者択一を迫り、覚悟することにしている。要は、一種の生活習慣病に追い込んでいた自らの油断を諌めようとしている。 この時を契機に、体を甘やかせる「体の持ち主」であっていいはずがないと考えている。だから、その後は、朝夕にオットットット踊りをあえてわが身に始めさせた。とりわけわが家の脱衣場は、ガラスの引き戸でワークルーム(風呂の焚き口がある)とし切られており、ふらついて頭から突っ込まないように気を付けながら立ったまま靴下をはくことにしたが、おかげで今では、靴下の着脱は何とか片足立ちでかなうようになった。 この過程で、片足立ちで靴下をはこうとするときにバランスを崩すのは、膝が十分に上がっていないことに気づかされている。次に、この欠陥を埋め合わせるために、無意識のうちに差し出した手で足首を持っており、脚を引き揚げていたことに気付かされた。だからその後は意識して、無意識に差し出す手に気付くようになり、意識して引っ込ませている。これは一種の生活習慣病の予防ではないか、と思う。 |