久しぶり
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姪夫婦の一人息子は大学生になっていた。姪の龍子は、「おじさんは鶏の解体を見せてくれた」と語り、小学生であった姪に、私が試みた体験学習を思い出させた。だから、「ひょっとしたら」と私は過去を振り返っている。 まず私は、小学生になった時に「ヒヨコを飼いたい」と母にせがんだ。その私に、父は養鶏を始めさせたが、中高生になるとやめさせている。養鶏に替えてヤギを飼わせるtめだったが、そのヤギも高校時代にはやめさせた。進学に備えさせたのだろう。 そのご、大学生になった私は、植樹に次いで、なぜか養鶏を再開していたわけだ。大きな鶏小屋 (その基礎は今、腐葉土小屋の基礎になっている) を作り、ヒヨコを買い求め、養鶏を再開したわけだが、学生アルバイトで稼いだ金で実践したわけだ。 実はこれまで、養鶏を再開した証拠写真を見るたびに、不思議に思っていたことがある。いつごろ、なぜ再会したのかを思い出せなかったからだ。このたびやっと、龍子の思い出のおかげで、「ひょっとしたら」とおぼろげに記憶がよみがえった。 私は、小学生の時に鶏の絞め殺しい役や、解体をさせられているが、それを機に、魚を食べても「ネコ跨ぎ」になっている。だからきっと、都会育ちの龍子の(体験学習の)ために、と思って飼いはじめたに違いない、と思った。 でもすぐに、「そうではないだろう」と、自分で打ち消している。何せ私は、肺浸潤に悩まされていたから、この土地での自活を覚悟していた。だから、自活力を身に着けたくて飼い出したに違いない、と思い直している。 龍子は次に、「今の大学生は」と、息子の方を見やりながら「あんなことしているのかしら」と語り出した。大学生が、姪や幼い妹などを大学に案内したりするだけでなく、養鶏や、その解体の様子を見せたりした私のような行いのことだ。弟も、大学生になると私と同じように姪の世話を焼いたようだ。 「私をダシにして」と、龍子は首を私の方に向け直しながら「レストランに行きたかったのではない」と問いかけてきた。南座の前にあるレストランに入り、2人でたしかホットケーキを食べた。ハチミツをたっぷりかけたように思う。 次は父の思い出に移った。昔話を幾度も、里帰りするたびに幾度もねだり、いつも『たのきゅう』の話を聞かせてもらった、という。龍子は、「おじいちゃんの創作だ、と思っていたけど、ちゃんと昔話にあるのね」と、つけ加えた。その概略を聞くと「私も、そういえば」と思い出したことがある。そこで私はもう1つの思い出を述べた。 「マンゴーの話は聞かなかった?」と龍子に尋ねたが、「ない」という。サルに茶の葉を摘ませる話しだが、その岸壁にはマンゴーの木も生えていた。その実のおいしさを、私は幾度も父にせがんで、聞かせてもらった。そのせいで、後年憧れのマンゴーを食べた時に「なんだ、こんなものか」とガッカリしたことを覚えている。 この話は父の創作だろう。父は戦前、中国にも商売でよく出かけていた。後年私は、茶に詳しい人と中国旅行をしたが、その折に、サルに葉を摘ませたという茶を飲んでいる。 父は8年間も結核で戦中戦後を過ごしている。子どもより確実に先に死ぬとの実感が、父をひときわ己に厳しい人にしたのだろう。 私に飼わせた鶏が産卵するようになると、ポンシューをよく作ってくれた。ポンシューとは目玉焼きのことだが、時にはメリケン粉(母が育てた麦をひいてつくった)も用いてホットケーキも焼いた。母にヒチリンやフライパンを用意させ、自ら焼いた。それは私の顔色が悪い、と見てとって (母を叱りながら) のことだった。 実は、私の体には父に折檻されてついた傷跡が多々あるが、なぜ叱られたのかは思い出せなかった。それはなぜか、と考えたが、ここでまた思い出したこともある。 茶に詳しい友人との中国旅行で、初めてタンチャを目の当たりにした。そして、やむなく出来立てのタンチャを買った。タンチャは古いものほど高価で、美味しくなるし、栄養価も増す。だが、年季物はとても高価だった。そこで、私流に、出来たてを買い求め、そのまま今も保管してある。次回、龍子が来た時に「飲ませてやるか」と考えた。 |
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