若い頃


 

 このクヌギを始め、他に2本のクヌギが、山菜畑(春はフキ、夏からミョウガ)に生えていた。その一角に、デシオ(銅葉のカエデ)の苗木を数年前に(このたび切り倒したクヌギより西側に、つまり日陰に)植えており、それなりに育ててきた。

 ここのたび、一石三鳥を願って1本のクヌギを切り倒すことにしたが、エンジンソーが不調で使えないことがわかり、あわてた。佛教大生を迎える今月の日程は月末だし、これ以上切り取る時期を遅らせられない時期(水を吸い上げる)に至っていたからだ。

 そこで、エンジンソーはもとより電気ソーもなかった時代を思い出し、「これしきの(太さの)クヌギぐらい」とタカをくくり、とりかかった。

 加齢とはいやなものだ。あれほど次々と太い木をこれまでに伐採してきていながら、「これしきの木」と見た木に手こずった。嘆かわしい。それにしても、その太さが分かる松の玉切りを(すべて薪にしてしまわずに)残しておいてよかった、と思った。

 なぜなら、「このような太い木」が40年ほど育つことを説明し易い。また、庭は今とは違って、このような太い木を伐採できたことを振り返れる。つまり、今のように庭が出来上がっておらず、ドサッと切り倒せたわけだ。

 リズさんがホームステイしていた当時は、20歳になったかならずのリズさんを助手にして、太い木を切り倒した。高い木の上部に太いロープを結え、彼女にその端を引っ張ってもらって切り口の隙間を広げ、ノコを引きよくして切り込み、伐採した。狐を描いて倒れる瞬間は壮観だった。

 この度は、それらの木と比べるとチャチだったのに、悪戦苦闘。すぐに息が上がった。

 光を求めて東北東に傾いていた木だから、逆方向に、つまり障害物が少ない南南西の方向に倒す必要があった。だから木の重みも加わって、すぐにノコは引けなくなった。そこでやむなく人形工房にこもっていた妻を呼び出し、引っ張ってもらうことにした。

 まだぞうろ妻は、渾身の力を込めたのだろう。私は私で、懸命にノコを引き、ビクともしない状態から一刻も早く、逆方向にしならせようとした。1分もしないうちに、案の定、妻は「待った」をかけた。セカセカとノコを引く私の姿がそうさせたのだろうが、「待った」のかけ方が、私には気に入らなかった。

 たかが木を倒すだけの作業ではないか、と思ったのではないか。「命を落としたら台無しですよ」ときた。こうした場合、なぜか私は反射的に即応してしまい、後でシマッタと思うことがある。あるいは、どうしてあのような反応をしたのかと反省し、よくよく考えた末に、あれでヨカッタのだ、と自分に言い聞かせることも多々ある。

 「死ねたら、それで本望だろう」と、まず口走った。そして、「問題は、生き残った場合だ」「途中で投げ出した木が残っている」「それを視ながら生きるのか」とつないだ。

 この木を急いで切りたい理由があった。シイタケのホタギにしたかった。月末まで待てば、木は水分を吸い上げ始める。だから、エンジンソーが使えないから、と言ってあきらめるわけにはゆかなかった。

 妻は、「ロープの掛け方を」変えたい、といった。ひたすら力を込めて1方向に引っ張るのではなく、最悪の方向に倒れないように固定するロープを一本張る。そして、もう1本のロープで、より望ましい方向に倒せるように、体重をかけて引っ張りたい、といった。非力ゆえの知恵だろう。即座に私は賛同した。

 見事に倒せた。何らの問題も生じさせず、つまり他の植物などを傷つけずに、バサッと倒せた。久しぶりに妻も、木を倒す醍醐味を味わったはずだ。幹の部分はホタギとなり、翌年にはシイタケを吹かせるだろう。太い枝などは、翌々年に風呂を沸かす。

 この木を切り取ったことで、数年前からこの西側で育てていたデシオに日当たりが良くなるし、景観上も美しくなる。

 それよりも何よりも、(このクヌギが茂ることで、だんだん日当りが悪くなっていた)山菜畑が喜ぶだろう。きっと、来年は蕗の薹をたくさん吹かせるはずだ。間違いなく、この夏は、ミョウガが沢山採れるはずだ。
 

松の玉切りを残しておいてよかった

見事に倒せた