「アッツ島玉砕」

 

 藤田嗣治の「腕」と大本営の「口」が織りなす相乗効果は、今風に言えばメディアミックスの威力は、当時大成功を収めたが、その時代の空気を、つまりなぜ大成功をおさめさせたのかを感じ直しておきたかった。

 大本営は、アッツ島守備隊の全滅を期に、「玉砕」という言葉を使い始めている。2、600余人の守備隊は、11,000余人の重火器を備えた米軍相手に火ぶたを切り、たびたび大本営に増援を求めた。しかし、大本営はこれに応じず、逆に北太平洋のこの要塞(アッツ島を含むアリューシャン方面)からの撤収を決めている。その後、部隊は全滅。

 大本営発表は「1兵の増援も1発の弾丸も求めず」「玉砕」と称賛。軍神扱いし、国民にも「玉砕」に対して尊崇の念を抱くように求めている。

 藤田は、このとき日本にいた。開戦前にパリで大成功を収めていた藤田は、帰国していたが、日本の画壇では居心地が悪かった。おりしもわが国の戦局は暗転。

 アッツ島守備隊の全滅を知っていた藤田は、想像力を駆使し、わずか22日間でこの絵を描き上げ、3日後に迫っていた「決戦美術展」に出品している。

 この美術展は、アッツ島守備隊員の多くを輩出していた青森県をはじめ北国を巡回したが、行く先々でこの絵は絶賛された。多くの人がこの絵の前に釘づけになり、膝まづいたり、拝んだりした。

 藤田は、兵士のごとき服装で身を固め、出品した絵の横で直立不動の姿で立って見せてもいる。

 実は、アッツ島ではこの絵のような肉弾戦は繰り広げられていなかった。多くは総攻撃の突撃中に米軍の重火器で倒れている。重傷を負った兵士は、妻の名を呼びながら手りゅう弾を胸に抱いて、あるいは母の名を叫びながら(銃身の長い38銃の)銃口を口にくわえ(軍靴を脱ぎ捨て、脚の親指で引き金を引き)自決している。

 この絵の隣には、別の藤田作品がならんでいた。邦人女性も暮らしていたサイパンでの悲劇を伝えていた。ここでは、もっと凄惨な戦いがくり広げられている。バンザイクリフと呼ばれるようになった断崖から、多くの邦人女性が投身自殺している。

 東条英機がつくった戦陣訓が、捕虜となることを許さなかったからだ。捕虜になったと分かると、その親族は日本国民の手で酷い目にあわされる空気がみなぎっていた。親兄弟の家などに、「国賊」などの叫び声と共に雨あられのごとく石つぶてが投げ込まれていた。「バッシング」である。

 そうした機運を醸造するかの如くに、大本営や東条などは勇ましい言葉を次々と振りまいていた。その東条は、敗戦後にピストル自殺を試みているが、弾丸は心臓を外れ、未遂。

 ちなみに、敗戦後、藤田嗣治は画壇から戦争を賛歌した張本人おごとく見なされるなど、居心地が悪くなっている。日本脱出。フランス国籍を得て、フランス人として死亡。