サルをうらやんだ

 ベルサイユ宮殿にもトイレはなかった。パリといえども、家屋にはトイレはなく、道路を下水道のごとく屎尿で汚してしていた。いわばサルなみとっいってよかった。そのころの日本には厠があった。屎尿を肥料として循環させた。

 いつから「便所」という言葉が出来たのか、空では覚えていない。だが、良い名称だと思う。江戸時代の長屋では、家主は店子の家賃収入より、店子の屎尿の売り上げ(肥料として農家に引き渡す代金)の方が多かったという。

 だから日本人は油断したのだろう。屎尿を汚く思っていた欧州人に遅れを取った。パリやロンドンなど欧州では、その後巨大の共同溝を地下に穿っており、水洗便所を普及させている。その後、ガスが普及するが、さらにその後、電気が普及するが、配管配線はすべて共同溝に通しており、美しい街にしている。舗装道路を幾度も掘り返すなどの無駄なこともしていない。

 わが家では、この両方の素晴らしさを活かしたくて、工夫を凝らしてきた。最終的には(居宅の便所は)今の姿になった。水洗トイレにしたが、大きな屎尿タンクにため、自然発酵させ、肥料に活かすスタイルだ。

 つまり「便所」を、水洗にしたことで「不便所」にしていたわけだ。断水1つで「不便所」にしてしまい、潜在的ストレスを溜めていた。

 加えて、汚水管のプラスチックとコンクリートと言うミスマッチの不具合(組み合わせ部分に隙間が出来て、木の根が忍び込む)だけでなく、コンクリートの経年変化の怖さも知った。この点を、先に気付いておくべきであった、と悔やまれた。でも、高圧洗浄を頼めばなんとか問題解消(わが国得意の対処療法)は可、と知った。

 要は、人間は、繁栄や発展、便利や効率だと思ってあくせくしながらシステムを構築し、そのシステムの不具合で万事休すのストレスを溜め込んでいた、との追認だった。

 ストレスも良きストレスは、むしろカラダに良いのだろうが、悪しきストレスはいただけない。悪しきストレスの典型は生きとし生けるものをことごとく困らせる地球環境の破壊だろう。